支離滅裂で意味不明。にもかかわらず これでもかと言わんばかりに緊張感の漂う電話が、紫龍の許に入ったのは、ある夏の日の午後のことだった。 番号は瞬のもの。 それが携帯電話の番号ではなく 固定電話の番号だったので、珍しいことだと思いながら、紫龍は その電話に出たのである。 しかし、電話をかけてきたのは 瞬ではなく、ナターシャだった。 しかも ナターシャの声は泣き声で、かなり取り乱している。 聞き取ることができたのは、「パパが」「マーマが」「ナターシャ、どうしたらイイノ」だけ。 他にも何やら懸命に訴えてはいるのだが まるで要領を得ず、聞き取ることのできるのは やはり、「パパが」「マーマが」「ナターシャ、どうしたらイイノ」だけなのだ。 紫龍が すぐさま 瞬のマンション(氷河のマンションでもある)に向かったのは、その要領を得ないナターシャからの電話で、とにもかくにも 何らかの重大事件が起きたのだということだけは わかったからだった。 ナターシャが泣いている。 これが大ごとでなかったら、何が大ごとだろう。 あの氷河が、ナターシャが泣くことを許しているのだ。 ナターシャが泣いていたら、何を置いても、その原因を排除し、その涙を消し去るために動くはずの氷河が、ナターシャが泣くに任せている。 紫龍には、氷河の身に何かが起きたのだとしか考えられなかったのである。 氷河を 娘に甘すぎる父と からかいながら、その実 氷河と大差のない瞬の身にも、おそらく 何かが起きたから、ナターシャは泣いているに違いないのだ。 アクエリアスの氷河とバルゴの瞬の身に、何かが起きた。 地上の平和を守ることを第一義とするアテナの聖闘士の身に何かが起きたということは、地上に危機が迫っているということ。 そうでなかったとしても、地上の平和を守るために戦う際の戦力が減じたということである。 これは捨て置ける事態ではない。 そう判断したから、紫龍は いったん切った電話で星矢に連絡を入れ、取るものもとりあえず、氷河と瞬のマンションへと向かったのである。 マンションの前で、紫龍は、先に その場に到着していた星矢と出会った。 星矢が マンションの中に入っていくのを ためらっていたのは、その付近の空気が平穏で静かで――つまり 平和そのものだったから――のようだった。 少なくとも、ナターシャたちの住居であるマンションは壊れてはおらず、普段通りに 出入りしている人間もいる。 「ほんとに、瞬たちに何かあったのか?」 星矢に問われて、紫龍は暫時 答えに窮した。 「何かはあっただろう。ナターシャが泣いているんだから」 「うん」 “ナターシャが泣いているのだから、氷河と瞬の身に何かが起きた”という紫龍の判断には、星矢も異論はないらしい。 二人は訝りながら連れ立って マンションの中に入り、そこでも平和の空気を確認した。 顔見知りになっているマンションの管理人も、オートロックエントランスに向かう紫龍たちに、いつもと同じように軽い会釈を送ってくる。 敵襲があったのではなさそうだった。 エントランスに入り、瞬の部屋をコールする。 インターホンから聞こえてきたのは、瞬の声でも氷河の声でもない、ナターシャのしゃくりあげる声だった。 やはり“何か”はあったらしい。 「ナターシャ、氷河と瞬は そこにいないのか?」 と訊いてすぐ、いないからナターシャが出てきたに決まっていると、紫龍は思い直した。 「ナターシャ、エントランスの開錠の仕方はわかるか」 「うん」 ナターシャがその操作を スムーズに行えたのは、氷河や瞬に その方法を教えられていたからではないだろう。 氷河たちが教えるはずがない。 ナターシャが ナターシャの判断でオートロックを解除することを、氷河たちがナターシャに許すはずがない。 おそらく、瞬が このマンションに引っ越してくる以前、瞬を自分の部屋に招き入れる氷河の操作を見ていて、ナターシャは その方法を覚えたに違いなかった。 ナターシャは聡い子なのだ。 ナターシャは、瞬の部屋のドアもすぐに開けてくれた。 「いったい、何があったんだ! 氷河と瞬は……」 「紫龍おじちゃん! 星矢おにいちゃんー!」 紫龍と星矢を出迎えたのは、部屋の主である瞬ではなく、氷河でもなく、その泣き声でライブラの紫龍を そこに飛んでこさせたナターシャ当人ひとりだけ。 氷河と瞬の仲間たちの姿を認めると、ナターシャは、大粒の涙を零しながら、頼れる大人の手に飛びついてきた。 |