五老峰で迎える二度目の夜。
到着した日は旅の疲れもあって ぐっすり眠ることができたのに――“疲れ”というのなら、今日も老師のお守りで たっぷり疲れたのに――その夜、瞬は なかなか眠りの中に沈んでいくことができなかった。
老師お手製のログハウスを出て、廬山の大瀑布――紫龍が廬山昇龍覇を体得したという滝の脇に立つ。
湿潤な気候のため、瀑布は盛夏だというのに水量豊か。
昼と同じはずの滝音が、夜は響きが違う。
天の河(乳の川)が、その名の通りに白く輝いて 空を横断し、大滝の周囲を ほの明るく照らしていた。


「眠れないのか」
氷河に ふいに声をかけられて、それでも 瞬が さほど驚かなかったのは、自分が眠れずにいるのだから、同じ理由で眠れない人がいても不思議ではない――という判断が働いたからだったろう。
「滝の音が気になって……。滝音は波の音とは違うね。紫龍は慣れているにしても、この音の中で ぐっすり眠れる星矢は大物だよ」
「無神経なだけだ」
星矢が大物という意見には、氷河も異議はなかったが、瞬のために彼は そう言った。
「眠れぬのか」
そんな二人の上に、3つ目の声が降ってくる。
滝の断崖の途中に突き出した岩棚に座している老師の声。
夜の老師からは、昼間の 浮かれた気配が すっかり消えていた。

「はい。滝の音が耳について……」
「聖闘士は どこででも眠れなければならぬ。修行が足りんの」
「精進します」
「紫龍も、初めて五老峰に来た時は そうじゃった」
この滝の音の中で、老師は昔を懐かしんでいたのだろうか。
夜の五老峰の気温は10度にも届いていない。
聖闘士とはいえ老体。
瞬は老師の身を案じた。

「お風邪を召します」
「わしが?」
それは いらぬ心配だったらしい。
老師は、
「ひいてみたいものじゃ」
と、笑い声で答えてきた。
それきり黙り込む。

実年齢は軽く200歳を超える 聖闘士の最長老にして、前聖戦の生き残り。
昼間の彼の姿が、彼の真実の姿であるはずがない。
真実の姿の一部であったとしても、それは 過酷な戦いを経験してきた聖闘士が その戦いのつらさの果てに辿り着いた境地であるのだろう。
そう考えて、瞬は、老師の作り出す静寂と沈黙に 倣おうとしたのである。
だが、老師は その沈黙を破ってきた。

「おぬし等は、本当に好きな者はおらぬのか。叶うなら 一生を共に過ごしたいと願う相手は」
尋ねてくる声に、浮ついたものは感じられない。
だから、氷河と瞬は正直に沈黙したのである。
『いない』と即答しない二人を 岩棚の上から見おろして、老師は しんみりした様子で 二人に語りかけてきた。
「気になる相手がいるのならな。いるのなら――。アテナの聖闘士としての務めは しばし忘れるがよい。聖闘士の善悪を判断する天秤座の黄金聖闘士である わしが許す」
滝の音より小さな声なのに、夜の冷気の中で 老師の声は 不思議に はっきりと聞き取ることができた。
聞き取れてしまうことが つらい――尊敬する先達の口から そんな言葉は聞きたくなかった――と、瞬は思ってしまったのである。

「どうして、老師……黄金聖闘士であるあなたが、どうして そんなことを おっしゃるんです」
まるでアテナの聖闘士であることが不幸なことでしかないような――幸福の障害でしかないような。
“春麗の幸福を願うから”という理由だけで、仮にも 青銅聖闘士たちの進むべき道を示す立場にある黄金聖闘士が そんなことを言うだろうか。
言うのなら、その行為には相応の理由があるはずだと、瞬は思った。
「老師は後悔していらっしゃるんですか。アテナの聖闘士としての、これまでの ご自分の生を」
滝の音より、それが気になっていた。
瞬が眠りに就けずにいたのは、聖闘士でいる限り 幸福になることはできないと考えているような老師の振舞いのせいだった。
瞬自身は、アテナの聖闘士になれたこと、仲間たちと共に地上の平和を守るために戦えることを、この上ない幸福と思っているからこそ、なお一層――瞬には 老師の考えが理解できず、不安だったのだ。

瞬に問われたことに、老師は答えを返してこなかった。
答えを口にしないまま、若い聖闘士たちを見おろしていた眼差しを、どこか遠い虚空に向けて投げる。
「おぬし等を見ていると、若かった頃を思い出す」
「老師が 若かった頃――?」
老師が老師と呼ばれるようになる以前、老師は――天秤座の黄金聖闘士・童虎は、さぞや血気盛んな青年だったに違いない。
そして、おそらく、その頃の老師は、自分がアテナの聖闘士であることを不幸なこととは思っていなかったはずだった。

「若い頃には、わしにも仲間がおった。250年も前。わしは 聖闘士になったばかりの ひよっこで、おまけに かなりのお調子者だったから、先走って 失敗ばかりしておった。仲間たちに叱られてばかりおった」
「老師が、ですか?」
『想像できません』と言いかけた言葉を、直前で飲み込む。
昼間の老師の浮かれ振りを思い出すと、それは 決して想像できないことではなかった。

「素晴らしい仲間たちじゃった。仲間たちと共に戦えるのなら、どんな苦難も どんな痛みも平気じゃった」
前聖戦の生き残りは二人だけだったと聞いている。
今は老師だけ。
当時 聖域に幾人の聖闘士がいたのかは わからないが、そのほとんどは戦いで命を落としたのだ。

「わかります」
瞬が、もしかしたら“普通の”幸福には一生 縁がないかもしれない聖闘士としての自分を幸福と感じていられるのも、共に戦う仲間たちがいるから―― 一瞬のためらいもなく 自分の命を預けることのできる仲間がいてくれるから。
老師の言葉は、瞬の思いと全く同じものだった。

「誰もが若かった。誰もが皆、友を信じ、地上の平和を守るために戦い、自分に与えられた時を、貴重な宝石を燃やすように生き、そして 死んでいった」
「ええ」
与えられた時間が どれほど短いものだったとしても、それが余人の百年に劣るとは思わない。
先達の命と戦いを受け継ぎ 戦う聖闘士の一人として、瞬は絶対に、そんなふうに思うわけにはいかなかった。

「若いおぬしたちを見ていると、わしの仲間たちを思い出すのじゃ。若くして死んでいった わしの仲間たちにも、戦い以外に何か やりたいことがあったのではないかと、ふと……」
「老師。それは……だとしても、それは――」
戦いの他に何らかの望みがあったとしても、戦いとは別の夢があったのだとしても、彼等は 彼等が最も価値あるものと信じるもののために 命をかけて戦ったのだ。
「わしの仲間たちに悔いはなかった。それは わかっておる」
おぬしの言いたいことは わかっている。
そう言うように、老師は瞬の言葉を遮った。
瞬の訴えだけでなく――老師は すべてを承知しているようだった。

「春麗の望みは、紫龍が自分の側にいることより、紫龍が生きていることじゃろう。紫龍が 己れの生を悔いなく生きることじゃろう。わかっておるのじゃ。じゃが、わかっておるからこそ、一層 不憫でのう」
「はい……」
「己れの信じるもののために精一杯 戦って死ぬ紫龍は、まだ いい。聖闘士は それでいい。そして、春麗も覚悟はできている。紫龍と春麗は――あの子等は、わしが育てたとは思えぬほど よい子たちじゃ。よい子たちだから――」

よい子たちだから、是を非にしてでも 二人には幸福になってほしいと、老師は願ったのか。
老師の切ない願いに 胸を締めつけられ、苦しくて、瞬は眉根を寄せた。
龍座の聖闘士の幸福を――自分の仲間の幸福を、ここまで強く願ってくれる老師を、その深い愛情を、心の底から有難いと思う。
そんな瞬に気付いて、老師は ふいに戸惑ったような苦笑を作り、なぜか、
「おぬし等が いかんのじゃ」
と、青銅聖闘士たちを責めてきた。

「おぬし等の登場は、聖域の新しい時代を予感させるものだった。わしは おぬし等の上に聖域の明るい未来を見た。この上は、紫龍と春麗を幸福にすることが わしの最後の務めだと、わしは思ってしまったのかもしれん。紫龍と春麗を幸せにすることができれば、わしの務めは終わり、先に死んだ仲間たちが『よくやった』と言って、わしを呼んでくれるのではないかと思ってしまった――のかもしれん……」
「え?」
「わしの仲間たちは皆、逝ってしまった。なぜ、わしだけが いつまでも生きておるのじゃ。あやつ等は、なぜ わしを呼んでくれんのかのう。呼べば、わしが またうるさく騒ぐと思っているのか……。十二宮での おぬし等を見ていたら、無性に仲間たちに会いたくなってのう……」

「老師……僕たちを見ていて――?」
「誤解はするでないぞ。わしは、おぬしが思っているような立派な人間ではない。よく できた師でも父でもない。ただの……仲間が恋しい、ただの聖闘士じゃよ」
自身の未熟を恥じるように、老師は そう呟いた。

老師にとって いちばん大切な人は誰なのか。
老師は、誰の幸福を最も強く願っているのか。
そんな事柄を考えることは、全く意味のないことだろう。
常人には考えられないほど長い時を生きてきた老師。
老師に与えられた時の中を、多くの人が通り過ぎ、死んでいった――。

それらの人々の生と死が、いったい どういう感懐を老師の中に育んだのか。
まだ十数年の命をしか生きていない瞬には、老師の胸の内にある思いは 想像を絶するものだった。
ただ 老師が それらの人々を 慕わしく思っていたことだけはわかる。
老師が 多くの人々を たった一人で 見送ってきたことだけは わかる。
老師の心のありようまでは わからなくても、その事実を思うだけで、瞬の瞳には涙が あふれてきた。
今はもう会うことの叶わない人たちに、老師は どんなにか会いたいことだろう。
そして、今 生きている者たちを、老師は どれほど大切に思っていることだろう。
老師のためにも 泣いてはならないと思うのに、瞬の瞳は 次から次に ぽろぽろと新しい涙を生み続けた。

「アテナの聖闘士が 泣くでない。年寄りが拗ねているだけじゃよ」
「はい……いいえ、そんなことは……」
「わかっているのじゃ。わしが傍で何を画策しても、紫龍の生き方を決めることができるのは紫龍だけで、春麗の生き方を決めることができるのは春麗だけなのだということはの」
すべてが わかっていても なお、その幸福を願わずにはいられない。
そして、アテナの聖闘士としての務めを果たし、胸を張って仲間たちに会いにいきたい。
願っても無駄、望んでも無意味。夢見ても、希望を抱いても、それは叶わないと 冷ややかに諦めてしまうには、老師は熱い心を持つ人間でありすぎるのだろう。
そして、アテナの聖闘士は どれほど強大な力を その身に備えていても人間なのだ。
人間だから、希望を抱かずにいられない。
人間だから、アテナの聖闘士でいられる。
人間だから、寂しいのだ――。






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