それぞれの場所で






公園の ちびっこ広場のゴムチップ舗装された地面には、直径50センチほどの円が3つ、2メートルおきにチョークで描かれていた。
氷河とナターシャは、直線上に描かれた3つの円を間に置いて、向かい合って立っている。
氷河は、円までの距離が10メートル、ナターシャは2メートルほど。

『よーいどん』の掛け声で、氷河は 3つの円のどれかに向かってボールを蹴り、ナターシャは 氷河が蹴り入れる円を咄嗟に判断して、氷河が蹴ったボールを目がけ おはじきを一つ投じる。
氷河が蹴ったボールが地面に落ちる前に、ナターシャが投げた おはじきがボールに当たれば、ナターシャの勝ち。
ナターシャが 全く見当違いの方向に おはじきを投じた場合は、氷河の勝ち。
ボールが地面に落ちてから ナターシャが おはじきを投じるのは反則。

それが、サッカーのPK戦を模して、ナターシャ向けに 氷河が考案したゲームらしい。
よく 次から次に 新しい遊びを思いつくものだと、氷河の発想力に 瞬は 感心していた。
敵の攻撃目標を咄嗟に判断する反射神経と動体視力を養うゲーム。
我が身を守る能力と、サッカーのゴールキーパーとしての能力も身に付く一石二鳥のゲームだと、氷河は無表情で得意げに言っていた。
ナターシャはサッカーのプレイヤーより チアリーダーになることの方を望むのではないかと、瞬は思っていたのだが。

とはいえ、ナターシャの嗜好と価値観は まだ形成途中。
これから どうなるかは、誰にも わからない。
ナターシャには たくさんの夢があり、可能性もまた たくさんある。
今のところ、ナターシャは、氷河が考案したゴールキーパー育成ゲームが かなり気に入っているらしく、対決の勝敗に一喜一憂して、(自分が負けた時にも)楽しそうな歓声を響かせていた。

「瞬ちゃんの顔って、特殊よね」
ベンチに並んで掛けていた蘭子に 突然 そんなことを言われ、瞬は その視線を反射的にナターシャたちの上から蘭子の方へと移動させた。
てっきり 蘭子も 氷河とナターシャのゲームを熱心に観戦していると思っていたのに、蘭子は ナターシャのマーマの顔の観察に いそしんでいたらしい。
そういえば、この公園に蘭子が来てくれた理由も まだ聞いていなかった。
聞いてはいなかったのだが、彼女のことだから おそらく、『氷河ちゃんの お顔を、お陽様の下で見たくってぇ』あたり。
――と察していたので、氷河ではなく自分の顔に言及されて、瞬は少々 意外の念を抱いたのである。
自分の顔は蘭子の好む顔ではないだろうと、瞬は、何とはなく思い込んでいたのだ。

「好きで こんな顔に生まれたわけではありませんよ」
「あ、そういう意味じゃなくってぇ。顔の造形のことじゃなく、瞬ちゃんが自分で作った顔の方」
「僕が自分で作った?」
「綺麗なお顔なのは 誰も異論のないところでしょうけど、何ていうか……。いかにも 優しげで 清らかで善良そうな顔。澄んで綺麗な目をしてて、汚いことや悪いことなんか考えたこともありませんって言ってるような、その お顔のことよ」
「……」

それは賛美なのか、批判なのか。
蘭子の発言の意図を読み切れず、どういうリアクションを示すべきかを迷い、結局 瞬は無反応でいることにした。
大きな身体を前屈みに ひねって、蘭子が そんな瞬の顔を覗き込んでくる。
「あら。こういう場合、瞬ちゃんみたいに奥ゆかしい人は『そんなことありません』って言うものじゃないの? 『僕だって、よくないことを考えることはありますよ』とか何とか」
蘭子は、“汚いことや悪いことなんか考えたこともありませんって言ってるような”顔の持ち主が、どんな“よくないこと”を考えているのかを知りたがっているのだろうか。
蘭子は そんなことを気にする人間だったろうか?
――と、瞬は訝った。
そうであっても、そうでなくても、蘭子の期待には沿えない。

「僕は 奥ゆかしい人間ではありませんから」
それが蘭子には意想外の答えだったらしく、彼女は 更に その瞳に興味深げな光を宿した。
「善良で優しい瞬ちゃんでも、おなかの中では 悪いことを考えてたりするの? 妬みや憎しみの感情を抱くことはある? 想像できないけど――」
「僕は、そういう考えを抱くことは ありません」
「こういう場合、奥ゆかしい人は――」
「僕は奥ゆかしい人間ではないんです」

蘭子は 得体の知れない正義の味方から 何かを探り出そうとしているのだろうか。
それとも これは他愛のない世間話なのか。
いずれにしても、アテナの聖闘士の内面など、一般人は知らないでいた方がいい。
瞬は、やわらかい微笑で、蘭子の詮索を遮った。
賢明な蘭子が、すぐに話題を変える。
「ま、瞬ちゃんのお顔の考察は、次の機会にまわすことにして」

蘭子の それは、正義の味方の内面の詮索でも、時間潰しの世間話でもなく、本題に取りかかる前の前振り――いわゆる前座だったらしい。
彼女の本題は、練馬区光が丘の氷河とナターシャの遊び場から、墨田区押上にある 氷河の職場へと飛翔した。
「瞬ちゃん、今夜あたり、氷河のお店に来てくれない? 以前は週に2度は来てくれていたのに、ここのところ ずっと ご無沙汰でしょう。みんな、寂しがっているのよ」
「それは……」

ナターシャを引き取ってから、瞬は 氷河の勤務時間には、自宅で(それは氷河の自宅であることもあったが)ナターシャと一緒にいることが多くなっていた。
そのために、瞬は 氷河と同じマンションに引っ越したのだ。
当然、氷河のバーに行く機会は激減した。
というより、ほぼ皆無になっていた。

一人で留守番をさせることのできない年頃の子供がいる氷河の家の事情を知っている蘭子が、氷河の店に来てほしいと瞬に求めるのは、いったい どういうことなのか。
どういう理由があれば、蘭子は 瞬にナターシャの保護責任を放棄してまで、娯楽・遊興の場と言えないこともないバーに来てほしいと求めることがあるか。
見た目よりずっと常識人で実際家である蘭子を知っている瞬は、常識的で実際的な可能性を模索した。

「氷河のお店の状況が芳しくないんでしょうか? お客様が減って、売り上げが落ちているとか?」
「あ、そういうことじゃないの。そんな心配は ご無用よ。確かに、瞬ちゃん目当ての お客様は多かったし、みんな、瞬ちゃんが お店に来なくなったことを残念がってるんだけど、氷河ちゃんの作るお酒は美味しいし、それで お客様を繋ぎとめておくことはできてるの。氷河ちゃんの作るお酒も氷河ちゃんの お顔も評判。新規のお客様も増えているわ。余計な客まで」
氷河の店の経営は順調らしい。
蘭子の“本題”は、どうやら 最後のフレーズにあるようだった。

「お客様に“余計な”お客様なんているものなんですか?」
瞬が尋ねると、蘭子は 餌に食いついてきた魚を釣り上げようとする釣り人のように、肩と腹と声に力を込めた。
「もちろんよ! どれだけ売り上げに貢献してくれたって、気に入らない客は気に入らない客よ」
“気に入らない客”が、氷河の店に通ってきているらしい。
そして、蘭子は、その客を どうにかしたいと思っているようだった。
「気に入らないというのは、氷河が? 蘭子さんが?」
「氷河ちゃんも私も気に入らないタイプの客だけど、他のお客様も 不快に感じてるんじゃないかしらぁ」

店のオーナーと管理責任者のみならず、他の客までが不快に感じる客。
どういう客なら、そんな客になれるのかが、瞬には わからなかった。
その客が 迷惑行為をしているのなら、氷河は問答無用で、迷惑な客を店から追い出すはずである。
氷河が そうしないのなら、その客は、蘭子の言う通り、“迷惑な”客ではなく“不快な”客なのだろう。
不快なだけだから、追い出すことはできない客。
確かに 対応が難しそうだった。
「瞬ちゃんが来てくれれば、敵も諦めて引き下がってくれるんじゃないかと思うのよね。ナターシャちゃんは、アタシが預かってあげるからあ」
蘭子の その言葉が、“迷惑ではない不快”の内容を 瞬に知らせてきた。

「どんな方なんですか」
「アタシより ちょっとだけキレイかしら」
「蘭子さんより お綺麗な方というと、相当 綺麗な方なんですね」
「アタシは嫌いな顔よ。オンナオンナしてる色気過剰虫」
つまり、妖艶な美女が氷河に秋波を送っている――のだ。
それも、かなり堂々と、相当 大胆に。

氷河の店は 良好な成績を上げている。
そこに 氷河(と蘭子)が不快に感じる客が通ってくるようになった。
つまり、氷河の職場環境が悪化した。
それは 氷河のストレスになり、仕事に対する氷河のモチベーションを低下させることになるかもしれない。
労働者のモチベーションの低下は、客へのサービスの低下を招き、客の満足度も下がるだろう。
蘭子は そうなることを憂え、恐れているのだ。
そして、氷河の職場環境を良好に保つことが労使双方の益になると考えている。
もちろん、それは結果として、氷河の店に来てくれる多数の客の益にもなるだろう。

そういうことなのであれば――事態の解決改善のために 自分にでき得る限りの協力をしたいと、瞬は思ったのである。
叶うなら、“不快な客”を店から追い出すのではなく、“不快な客”を“不快でない客”にすることによって。






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