瞬が何とか気を取り直し、岸田マナミに、 「よくないことというのは、どんなことですか?」 と問い返したのは、氷河の恋人と対決する気満々の彼女は、絶対に敵の逃亡を許す気はないのだろうということを悟ったからだった。 何らかの決着がつくまで、彼女は この店のバーテンダーの恋人を解放する気はないのだ。 岸田マナミは、彼女が掛けていたカウンターチェアを立ち、瞬の前に移動してきた。 「よくないことは よくないことよ。黒いこと、邪まなこと」 「僕は、そういったことは考えません」 「でも、誰かを妬んだり憎んだりしたことはあるでしょ。いなくなればいいとか、いっそ死ねとか」 「そんなことを考えたことはありません」 「あなたの氷河を誘惑しようとして色目を使っている女には、消えてほしいと思うでしょ。私を妬まないの」 「妬みません」 「でも、私に対して何か――何か思うところはあるでしょ!」 『あなたの華やかな美しさが妬ましいです』と、嘘でもいいから言った方がよかったのかもしれない。 苛立ちで かすれ上擦ってきた岸田マナミの声を聞いて、瞬は そう思った。 しかし、瞬は 彼女に そう言ってやることができなかったのである。 嘘をつけないからでも、嘘をつきたくないからでもない。 実際に 瞬は彼女を妬んでいなかったし、妬んではならないと思っていたし、自分は そんな言葉を口にしてはならないのだと考えていたから。 瞬にできるのは、彼女が望む通りに 彼女を見て、彼女に対して思うところを 彼女に知らせることだけだった。 「ヒールが高すぎて、姿勢が悪くなっています。肩凝りがひどいはずです。それから、身体の左右のバランスが、少し――」 氷河の恋人としてではなく、世界の平和を守るために戦うアテナの聖闘士としてでもなく、しいて言えば医師の立場から、彼女に対して“思うところ”を語り出し――瞬は途中で 言葉を途切らせた。 彼女の何かがおかしいことに気付いて、微かに眉根を寄せる。 氷河の恋人の立場に立っていない、瞬の医師としての所見が彼女の気に障ったらしく、岸田マナミは更に声を荒げた。 「私を馬鹿にしてんの !? 他に何か――鬱陶しいとか、邪魔だとか、人の男に手を出すな馬鹿とか、嫉妬くらいしなさいよ」 「……」 彼女は何かがおかしい。 気が立っているだけでなく――。 「氷河は優しいので、多くの人に愛されるんです」 「優しい? この男が? こんな冷たい男、私、他に知らないわよ! この男、心とか感情とか、そういうのの持ち合わせが ないんじゃないの !? 私が 媚びても 甘えても 笑っても 怒っても無反応、無表情で!」 接客業に従事している人間が愛想笑いの一つもできないのは 確かに問題だが、氷河は氷河なりに“思うところ”があって そうしているのだ。 氷河が彼の感情を隠すことなく 表に出したら、とんでもないことになる。 瞬は、ナターシャといる時の氷河の様子を彼女に見せてやりたいと思った。 可愛い愛娘と遊んでいる時も、氷河は ほぼ無表情。 それでもナターシャは、パパが途轍もなく優しい人間だということを ちゃんと見抜いている。 「あなたは氷河を好きなわけではないのでしょうか?」 「なに、頓珍漢なこと言ってるの。とんでもない。大好きよ。この綺麗な顔と、素晴らしいプロポーション。無駄のない動き。動作の一つ一つが いちいち決まってるし」 「それが事実なら……」 瞬が、言いかけた言葉を 再度 途中で途切らせる。 それから 瞬は、沈んだ声で、 「……いえ。とても残念です」 自分の“思うところ”を口にした。 もちろん、岸田マナミには、瞬が言おうとした言葉も、瞬が言った言葉の意味も わからない。 彼女は 攻める場所を変えてきた。 「ああ、そう。赤の他人のために いちいち腹を立てるのは馬鹿らしいってわけね。それなら それで結構よ。でも、妬みや憎悪はなくても、欲はあるでしょ。清らかな瞬せんせでも、お金は欲しいでしょ」 「あって困るものではないと思っています」 「瞬せんせは お医者様よ。今の あんたの数倍は稼いでるわ。ううん、きっと10倍以上――」 服田女史が二人の間に割り込んできたのは、さすがに金の話は品がなさすぎると思ったからだったのか、それとも岸田マナミの見当違いの攻撃ポイントに呆れ、正そうとしてのことだったのか。 いずれにしても、服田女史は 瞬の所得を知らないはずなので、それは大袈裟な はったり、根拠のない出まかせである。 が、瞬もまた岸田マナミの所得を知らないので、服田女史の言を誤りと断じることはできなかった。 一瞬 ひるんだ岸田マナミが、すぐに態勢を立て直し、攻撃の角度を少し ずらしてくる。 「お金で買えないもので欲しいものもあるでしょ」 それは もちろんある。 瞬が欲しいと思うものは、ほとんどすべてが 金銭で贖うことのできないものだった。 「それは、もちろん……。何より、世界の平和。そして、この地上に生きる人々が、互いに思い遣って生きていけたらいいと思っています。娘が健やかで、氷河が二度と どんな悲しい思いもせずに済めばいいと――」 「なによ、それ! 私を馬鹿にしてんの !? 『ワタシは、どっかの馬鹿女と違って、愛も才能も美貌も健康も、お金で買えないものは すべて持ってます』って言いたいわけ !? 『ワタシは世界一 幸せな人間です』って?」 「え……」 まさか、そう解されるとは思ってもいなかった。 実現不可能なことを夢見ている大愚と呆れ笑われる可能性は考えていたが、まさか 自分の“欲しいもの”の羅列を 幸せ自慢と解されるとは。 瞬は、思い切り 虚を衝かれてしまったのである。 あっけに取られている瞬を見て いたたまれなくなったのは、岸田マナミではなく、彼女の友人の方だったらしい。 「マナミ! いい加減になさいよ! 瞬せんせが、よくないことを考えるわけないでしょ。瞬先生は、凡百の徒とは違うの。あんたみたいな俗物じゃないの!」 「そんな出来すぎの人間がいるわけないでしょ! そんなの、綺麗ごと言ってるだけの、とんでもない大嘘つきよ。でなきゃ、ただの馬鹿!」 「あのね! 世界は広いの。いろんな人がいるの。そうやって、誰でも彼でも 自分のレベルにまで引きずり下ろして考えるのは間違いなの!」 さすがは、氷河が 彼の店で騒ぐことを許している ただ一人の客(他の客は、彼女のように騒がないだけ――という見方もあるが)。 服田女史は、世界が見えている。 岸田マナミは、しかし、友の忠言を聞き入れなかった。 「綺麗で、善良で、ヤサシイ恋人がいて、お金もあって、苦労知らず。その上、健康で、みんなに好かれてて、悪いことは考えたことがなくて、みんなを好きでいて? そんな人間、いてたまるもんですか! いるはずないでしょ!」 「マナミ! あんた、前は こんなじゃなかったのに、どうしちゃったのよ!」 岸田マナミは、以前は――少なくとも、服田女史が初めて この店に彼女を連れてきた時には――“こんな”ではなかったらしい。 彼女は最近になって変わったのだ。 その事実を知らされて、瞬は暗い気持ちになった。 岸田マナミは、服田女史の懇願に似た苦言を無視した。 暫時 つらそうに顔を歪めて無視した。 そして、わざとらしく瞬の上を横切って、カウンターの向こうにいる氷河に視線と声を投げる。 「少なくとも、寝て楽しいのは私の方よ。ねえ、氷河」 氷河への誘惑というより、瞬に対する挑発。 岸田マナミが持ち出した露骨な言葉が不愉快だったらしく、服田女史が むっとなる。 氷河は、表情も変えなかった。 瞬のためではなく、おそらくは、“不快な客”を この店に連れてきた服田女史のために。 「俺は、瞬以外の人間と寝る気にはならん」 「一度、試してみましょうよ」 「無理だな。俺は、そういう意味では、瞬だけを愛している。他の人間は無価値無意味だ。真冬の海岸に流れ着いた流木の方が、よほど役に立つ。乾かせば、焚き木になる」 それは どういう比喩なのか。 氷河は 幼い頃に東シベリア海の浜で見た光景を ふと思い出しただけだったのかもしれないが、ともかく それは、生きている人間であるところの岸田マナミを完全に拒絶する言葉だった。 朽ちた流木以下。 そう断じられたことが、耐えがたいほどの屈辱だったのか、岸田マナミは それ以上は一言もなく、氷河の店を出ていった。 いかにも怒りに燃えた様子で。 ハイヒールの音を高く響かせて。 瞬には、自分の耳に残った彼女のハイヒールの音が、ひどく悲しいものに感じられたのである。 |