“違う家”に住んでいた頃は、仕事を終えた氷河が 瞬の許にナターシャを引き取りに来るのは、いつも夜が明けてからだった。 だが、その日、氷河が瞬の部屋にやってきたのは、夜中の2時。 「最終には間に合わなかったが、始発が動き出すまで待っていられなかった」 そう言って、氷河は瞬の新居に入ってきた。 どうやら、彼は 聖闘士の能力を使って、マンションの前までは光速 もしくは それに準じた速度で帰ってきたらしい。 最近は 至るところに防犯用の監視カメラが設置されていて、注意していないと(突然 消えたり現われたりする不審人物として)怪しまれるのだ――と、少々 苛立たしげに、氷河は瞬に文句を言った。 「ナターシャちゃんの側にいるのが僕だと、そんなに心配?」 「そういうことではない」 「ナターシャちゃん、眠ってるの。起こすのは かわいそうだから、朝まで 僕の部屋で寝かせておいた方が……」 「そのつもりだ」 低い声で そう応じながら、音を立てずに寝室に行き、瞬のベッドに眠っているナターシャの寝顔を確かめることは怠らない。 食物アレルギー検査を受けさせることは思いつかなくても、子供に目を向け、気を配ることでは手を抜かない氷河の“いい お父さん”振りに、瞬の口許は自然に ほころんだ。 これまでの氷河の 他人への無関心や 自分自身への無頓着は、それらの対象物が “愛情から生じる責任感”を氷河に抱かせることができなかったからだったのだろう。 父親としての責任感が そうさせているのか、存外に険しい顔をしてリビングルームに戻ってきた氷河を見やりながら、瞬は そう思った。 「何を笑っている」 三人掛けのソファの瞬の隣りに、氷河が腰を下ろす。 「氷河が いいお父さんすぎて、微笑ましくなったの。優しくて、強くて、愛情深い、最高のパパ。ナターシャちゃんは 本当に幸せだなぁって」 「おまけに、“スッゴーク カッコイイ”しな。おまえは違うのか」 「え?」 咄嗟に、瞬は氷河の質問の意図が掴めなかったのである。 『おまえは 幸せではないのか』と問われたことはわかる。 それが、 『最高のパパのいない子供だったから、おまえは 幸せではないのか』 『ナターシャに、最高の“パパ”ではなく“マーマ”と呼ばれていることが、不本意なのか』 『ナターシャが幸せでいることは、おまえを幸福にしないのか』 いったい どの意図で為された問い掛けだったのかが、瞬には わからなかったのである。 そのどれでもないことに、瞬が しばらく気付かずにいたのは、その時 氷河が瞬に触れていなかったからだった。 氷河が 瞬に触れていたら、瞬は すぐに わかっていただろう。 氷河の『おまえは そうではないのか』が、『俺がいても、おまえは幸福ではないのか』という意味の問い掛けだったことに。 わかった時には もう、瞬はソファに身体を引き倒され、その 上に氷河に のしかかられていた。 もとい、氷河に のしかかられたから、瞬は、氷河の問い掛けの意味が わかったのである。 瞬が氷河の質問の意図を理解した時には既に、氷河は次の質問に写ってしまっていたが。 「ここでいいか。それとも、俺の部屋に行くか」 展開が想定外すぎて、すぐに答えが出てこない。 瞬は思わず、 「ぼ……僕、明日、仕事があるんだけど」 という馬鹿な答えを口にしてしまっていた。 氷河が 澄ました顔で、 「明日でなく、今日だろう。大丈夫。3時間は寝かせてやる」 と応じてくる。 4、5日なら、瞬は眠らなくても 日常生活に支障が出るようなことはない。 アテナの聖闘士としては 標準的な能力なのだが、その能力があったからこそ、瞬は、学費を自分で捻出し、講義はもちろん、レポート、実習、臨床、研修、レポート、試験の連続であるハードな医学部のカリキュラムを こなすことができたのだ。 それを承知の上で、『3時間は寝かせてやる』は、氷河にしては破格の優しさである。 破格の優しさだと思いはしたのだが。 瞬は、その優しさに軽い目眩いを覚えてしまったのである。 もっとも、そんな目眩いなど、 「氷河の部屋の方がいい」 と答える自分自身に覚えた目眩いに比べれば、ささやかすぎるほど ささやかなものだったが。 |