蘭子が二つの家族の小旅行(とリキュールの仕入れ)のために ワンボックスカーを調達してくれた。
車体に 特大サイズの角ゴシック体で『飲んだら乗るな。乗るなら飲むな』の文字が躍っている お茶目な車。
蘭子の お茶目のセンスが理解できずに 驚く大矢夫人(正しくは未亡人)に、瞬は、
「元警官だった方から借りてきた車なんです」
と説明することになった。

「こんにちは、おばちゃん、タカユキクン」
「こんにちは、ナターシャちゃん。今日も可愛らしいこと」
ナターシャは 大矢夫人に 元気に明るい挨拶をし、そんなナターシャに 大矢夫人が ぎこちない微笑で答える。
ナターシャには、大矢夫人に対して 特別なシンパシーを感じている様子はなかった。
とはいえ、特段 避けようとしているわけでもなく――それは正しく“よく知らない よその人”に対する普通の態度だった。
あまりに普通すぎて、氷河と瞬は、安堵より、大矢夫人に対して ある種の気まずさを覚えてしまったのである。

大人たちの複雑な胸中を知らないナターシャは、いつもと違う大きな車に はしゃぎ、その窓の外に見える見慣れぬ風景に はしゃいでいた。
興奮気味のナターシャとは対照的に、大矢夫人の息子の方は、その年頃の男の子にしては ひどく大人しい。
「タカユキクン、何か飲ムー?」
「タカユキクン、何か食ベルー?」
「タカユキクン、何か聞クー?」
我が家に迎えた お客様を気遣うようにナターシャが声を掛けても、返事は3度に1度 返ってくるかどうか。

「車に酔ったのなら、窓を開けて、近くじゃなく遠くの景色を見るのがイイんだヨー。マーマが そう言ってた」
ナターシャは、大矢親子に接することで、むしろ“お姉ちゃん”の気質に目覚めたのかもしれない。
瞬が氷河に そう囁くと、
「あれは、俺の世話をしている おまえの真似をしているだけだ」
という別の解釈が返ってきた。



梨園は梨狩りのシーズンに入ったばかりで、梨もぎには ほど良い混み具合だった。
駐車場に面して、園内に入らなくても梨を購入できる直売コーナーと 大きな売店がある。
売店には、クッキー、パウンドケーキ等の菓子類から ジュースやジャム、アイスクリーム、ソフトクリーム、果ては 梨の味のするポテトチップスなどという訳のわからないものまで、梨を用いた加工品が これでもかとばかりに並べられ、その奥にあるガーデンレストランで休憩ができるようになっていた。
梨畑は広く、その あちこちに 大きな木製のテーブルとベンチがあり、そこで来場者が もいだ梨を食べられるようになっている。
各テーブルの上には、回転式の皮剥き機、使い捨ての食器、水の入ったタンク。
果樹園間で競争があるのか、それなりにサービスは充実していた。
梨園に入った瞬たちは、とりあえず、それらのテーブルの中の一つに落ち着いたのである。

「ほんとに梨の実が 木にぶら下がってルー。スゴイー!」
ナターシャは、木に生っている梨を見るのは これが初めてで、園内に入ると早速、梨の木の間を駆け回って歓声を上げ始めた。
「パパ、ナターシャ、梨に手が届かないヨー! ナターシャ、自分で 梨の実、取ってミタイー」
ナターシャに せがまれた氷河が、ナターシャの身体を抱き上げ、肩の上に乗せる。
木に生った梨の実が自分の手の届くところに あることに、ナターシャは瞳を輝かせた。
その梨に手を伸ばす前に、少し離れた場所にあるテーブルに着いている瞬に、作業開始の報告をする。
「マーマ、マーマ、見テー! ナターシャ、梨の実、取るヨー!」
「ナターシャちゃん、おでこを枝にぶつけないように気をつけて」
「ナターシャ、気をつけるヨー」

ハサミを使わずに梨の実をもぐのに しばらく苦戦していたが、ナターシャは 数分の時間をかけて その難事業を 何とかやり遂げた。
「マーマ! ナターシャ、梨の実、取っター!」
「わあ、すごく立派な梨の実が 取れたね!」
得意げに声をあげるナターシャに、瞬が手を振り返すと、ナターシャは 自分の努力の成果に大いに満足したらしい。
最初の収穫物を氷河が手にしている籠に入れると、彼女は 次の実の収穫に取りかかり始めた。

「本当に お綺麗で、幸せなことがわかるご家族。ナターシャちゃんはパパが大好きなんですね」
瞬の隣りの席で 氷河とナターシャの収穫作業を見詰めていた大矢夫人が、複雑な溜め息を洩らしながら呟く。
これまでに幾度も 多くの人に言われてきた その言葉を、今日は瞬も複雑な思いで 聞くことになった。

「氷河が可愛がって 甘やかすものだから、恐いもの知らずになってしまって。貴幸くんは お行儀がいいですね」
梨もぎ作業に興味がないわけではないようなのだが、タカユキクンは 梨園に入ってからずっと テーブルの席を立たず、母親の側を離れようとしなかった。
氷河に『貴幸くんにも梨もぎをさせてあげて』と言うことはできる。
言うだけなら簡単である。
だが、その言葉が、大矢夫人の心に、タカユキクンの心に、ナターシャの心に、どんな思いを生むことになるか――を考えると、瞬は気軽に その言葉を口にすることができなかった。
何より 氷河に『嫌だ』と言われたら、目も当てられない事態が現出する。

大人しいタカユキクンとは対照的に、ナターシャは明るく活動的だった。
「こっちがパパとマーマの分。これが おばちゃんの分、タカユキクンの分ダヨ」
瞬たちの着いている野外テーブルの上に もいできた梨を4つ並べて得意顔のナターシャは、自分の分がないことに気付いていないのか。
うっかり忘れているだけなのだとしても、ナターシャらしいミスだと、瞬は微笑した。

「ありがとう、みゆ……ナターシャちゃん」
ナターシャが自分の梨の確保を忘れたのは、十中八九、人を喜ばせることが好きなナターシャらしい うっかりミスである。
だが、大矢夫人の呼び間違いは、十中八九、うっかりミスではなかったろう。
うっかりミスだったとしても、彼女の中には、ナターシャを“美幸”と呼んでみたいという気持ちが ずっと くすぶっていたのだ。

死んだ娘に そっくりな この少女を、娘の名で呼んでみたい。
その時、この少女は、どんな反応を示すのか。
『なあに、ママ』と、笑顔で答えてくれるのではないか――。
そんな思いが。

大矢夫人が自らの失言をごまかすように、彼女の息子の方に目を向ける。
「貴幸も取ってみたい? ママが抱っこしてあげるわよ」
大矢夫人に そう言われたタカユキクンは、いかにも内気な様子で、黙って母親の腕に しがみついた。
そして、彼は 小さな声で 母に何事かを告げた。
「え?」
大矢夫人が、彼女にだけ聞こえたタカユキクンの言葉に驚いたように 目をみはる。
ほぼ同時に、ナターシャは、両膝をついていた木のベンチから 飛び降りた。

「タカユキクンは お菓子の方がイイ? お店に ジュースやアイスもあったヨー」
そう言って、ナターシャがタカユキクンの手を取る。
タカユキクンは、“お姉ちゃんの命令”に逆らえない弟のような動作で、掛けていたベンチから立ち上がった。
タカユキクンと手を繋いで売店の方に歩き出したナターシャは、どう見ても、“大人しい弟に対して 強大なリーダーシップを発揮する快活なお姉ちゃん”である。

「美幸!」
大矢夫人が、今度は はっきりとナターシャを その名で呼んだ気持ち、呼ばずにいられなかった彼女の心は、瞬にもわかった。
ナターシャが大矢夫人の声に無反応だったのは、彼女の声が聞こえなかったからではなく、それが自分を呼ぶ名だとは思わなかったから――だったろう。
ナターシャの無反応という反応に、大矢夫人が息を呑む。

「財布」
説明なのか、言い訳なのか、逃げ口上なのか――説明にも、言い訳にも、逃げ口上にもなってない一言を その場に置いて、氷河が子供たちのあとを追う。
それが説明であっても、言い訳であっても、逃げ口上であっても――氷河が席を外したのは、大矢夫人の立場と心情を思い遣ってのことだったろう。
彼女は、ナターシャに無視されたのだ。
母として認められなかったのだ。






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