もう観光客の真似はやめようと思っていた瞬が、翌日もスニオン岬に向かったのは、せっかくギリシャに来たのだからという思いのせいでも、夕日の中のスニオン岬とポセイドン神殿を見たいと思ったからでもない。 もし そうなら、瞬は もっと遅い時刻に その場所に向かっていたはずだった。 実をいうと、瞬は、自分が なぜ その場所を再び訪れたのか、その理由が 自分でも わかっていなかったのである。 昨日と同じ時刻、岬の神殿には彼がいた。 彼に会いたくて、自分は今日もまた ここに来てしまったのだと、彼の姿を認めた時、瞬は知った。 現代人の衣服を身に着けた、神と見紛う“人間”。 彼が何者なのかを知るために。 昨日の、痛みを感じるほど強い視線の意味を知りたくて。 彼が何らかの目的と意思をもって 瞬を見詰めていたのは、間違いのない事実のようだった。 昨日は 行きずりの人だと思っていた彼は、今日は、瞬が彼の存在を認めた時には もう、瞬のいる場所に向かって歩き出していた。 会話のできるところまで来ると、数秒間 射貫くような視線で瞬を見詰め――観察し、まるで瞬を逃がすまいとするかのように急いた口調で、彼は 見ず知らずの異国の人間に尋ねてきた。 「昨日も ここにいた。この場所が気に入ったのか」 彼は絶対にギリシャ人ではない――と思う。 しかし 彼は、流暢なギリシャ語で瞬に問うてきた。 だから 瞬もギリシャ語で答えたのである。 「あ、はい。そのようなものです。あなたも?」 「いや。俺が 今日もここに来たのは、ここに来れば、もう一度 おまえに会えるのではないかと思ったからだ。なぜ おまえの正体を確かめなかったのかと後悔して、夕べは ほとんど眠れなかった」 彼の答えを聞いて、瞬は まず、それが冗談なのか そうではないのかの判断に迷った。 次に、嘘なのか真実なのかを考えた。 何かを隠すための嘘なら、もう少し 本当らしい嘘をつくだろうから、それは嘘ではないのだろうと思う。 彼が 全くの真顔なので、冗談ではないのかもしれないと思う。 しかし、それが真実で、かつ 冗談でないのなら、彼は少々 変わった人間である。 瞬は、そう判断せざるを得なかった。 「正体……って……」 「おまえは人間か?」 「……」 数秒の沈黙。 それから 瞬は、つい吹き出してしまっていた。 自分も“変わった人間”だったことを自覚して、笑いながら、瞬も 瞬の冗談ではない真実を彼に告げる。 「あの……ほんとは僕も、あなたの正体が気になって、今日も ここに来てしまったの。あなたは神ではないんですか?」 「おまえが神でもニンフでもないのなら、おまえが人間であるのと同レベルで人間だ」 それは、自分を普通レベルの人間ではないと言っているようなものだと、瞬は 胸中で こっそり呟いた。 ともあれ、彼は神ではないらしい。 瞬とて、本気で彼を神だと思っていたわけではない。 しかし、彼が人間だとわかっても、瞬は その心を安んじることができなかった。 彼が神ではなく人間なのなら、なぜ自分は彼を特別な何かだと感じるのか。 なぜ 出会ったばかりの“普通の人間”が これほど 気に掛かるのか、その説明がつかない。 瞬は、彼を“普通ではない”と感じ、彼を“特別な人”だと感じていたのだ。 「よろしければ、アポロン以外の呼び名をください」 「たとえ あだ名でも、そんな縁起の悪い名前は嫌だ。氷河と呼んでくれ」 「……氷河」 『縁起が悪い』というのは、その名を有する神が 幸福な恋に縁のない神だからなのか。 だとしたら 彼は、美貌への称賛より、恋の成就を喜ぶタイプの人間なのだろう。 あるいは、自身の容貌への賛辞を聞き飽きて うんざりしているのかもしれない。 「僕のことは瞬と呼んでください。もちろん、僕は人間です」 瞬が 自分の“正体”を氷河に知らせると、彼は、 「人間か。よかった」 と、またしても 冗談なのか そうではないのかの判断に迷うようなことを、真顔で口にした。 それから、 「よかった……んだろうな……」 という、不思議な呟きを一つ。 それが、またしても真顔で――つまりは、本気で “よかった”のか否かの判断がつきかねているような呟きだったので、瞬は またしても彼の真意を測りかね 戸惑うことになったのである。 その呟きの意味を問う前に、だが、瞬は、瞬こそが氷河に尋ねたかったことを、氷河に尋ねられてしまっていた。 「普通の人間なら、どうして 俺は こんなに おまえが気になるんだ?」 「……」 その質問に対する答えは、瞬の中にはない。 では、瞬が氷河に同じ質問をしても、氷河の中に その質問への答えはないのだろう。 瞬が 何も答えずにいると、氷河は、 「気を悪くしないでくれ。詮索をするつもりはないんだ」 と、瞬の沈黙を誤解した言い訳を、瞬に手渡してきた。 『俺は神だ』と言われても笑い飛ばしてしまえないような人に 心苦しそうに謝罪され、瞬は慌ててしまったのである。 慌てて、彼の誤解を解こうとした。 「僕は、西欧文明の源流に興味があって ギリシャに来たわけでも、地中海の美しい風景を見たくてギリシャに来たわけでもないので、他の旅行者の方々とは違うところがあるのかもしれません。氷河は、僕の そういう異質を感じ取れてしまうのかも――」 「西欧文明の源流に興味があって ギリシャに来たわけでも、地中海の美しい風景を見るためにギリシャに来たわけでもない? では、おまえがギリシャくんだりまで やってきた目的は何なんだ。まさか、ギリシャ旅行が流行っているからではあるまい」 おそらく、今 ギリシャにやってきている大部分の外国人旅行者の、ギリシャ旅行の動機は それである。 “流行っているから”。 その動機に、“西欧文明の源流に興味がある”、“地中海の美しい風景を見たい”等の尤もらしい目的を付しているにすぎない。 瞬は、そう思っていた。 少なくとも 自分のように確たる目的を持って ギリシャにやってきた異邦人はいないだろう――と。 だが、その確たる目的を、氷河に知らせるわけにはいかない。 瞬は氷河に、真の目的とは言えないが、決して嘘でもない目的を告げることしかできなかった。 「僕は、平和な光景を見たくて……」 「平和な光景?」 「ええ。文化的価値とか 美しさとか、そういったことは どうでもいいの。平和な光景を、できるだけ たくさん見たいんです」 嘘をつかないために 瞬が口にした旅行目的は、おそらく 余人には奇妙に感じられるものだったと思うのだが、氷河は それを『変だ』とも『理解できない』とも言わなかった。 ただ、 「まるで、これから戦場に行く人間のようだな」 と呟いただけで。 氷河の呟きは、瞬の胸を突いた。 瞬の瞳が曇ったことに気付いたらしい氷河が、さりげなく話の方向を変えてくる。 「俺は、西欧文明の源流は どうでもいいが、美しいものには 大いに興味がある」 瞬は、氷河に気取られぬように安堵の息を洩らした。 「それで、この岬に来たんですか」 「昨日は ただの気まぐれだったが、今日はそうだ」 「でも、この岬が 最も美しい姿を見せるのは夕暮れだそうですよ」 「らしいな」 氷河が薄く微笑して頷く。 彼が なぜ笑ったのかが、瞬には すぐには わからなかった。 まもなく、氷河は、自分の勘の悪さを笑っているのだということに気付く。 彼は、今日は 瞬の正体を見極めるために この岬を再訪したのだと言っていた。 「あ……」 こういう場合、どう振舞うのが適切なのか。 困惑し 瞬きを繰り返す瞬を見て、氷河は 今度は声を上げて笑った。 |