地上の平和、そこに生きる人々の命、人々の幸福を守ること。守りたいという意思、願い。 その願いを願うだけで終わらせないために――聖闘士になるために費やした時間。努力。 それらを捨てることは、自分自身を捨てること。 瞬が守りたいと思っている世界は、今や、氷河の生きている世界になった。 瞬は、どうしても捨てられなかったのである。 恋のために、それらを捨てることは、どうしても 瞬には できなかった。 アテナの統べる聖域に入り 正式にアテナの聖闘士の一人に列せられるということは、修道士見習いが修道誓願を立てて 俗世を捨て、厳格な信仰生活に入るようなもの。 地上の平和を守るために、自らの命と心をアテナに捧げること。 聖域の門前まで来て、その門を くぐることを ためらうようなことをしていた瞬に、聖域に入る決意を促したのは、アテナの聖闘士には不要なものであるはずの恋の感情だった。 それは、理に適ったことなのか、それとも皮肉なことなのか。 身を切られるように 痛く 苦しく つらい決意をして、瞬は、アテナの統治する聖域に入ったのである。 だというのに――だからこそ、その聖なる世界の中に 氷河の姿を見い出した時、瞬は唖然とした。 自分は 悪い夢を見ているのではないかと、本気で思った。 おまけに、どうやら 氷河は、ロシアの皇太子でも スウェーデンの王子でもなく――アテナから聖衣を授かった 歴としたアテナの聖闘士であるらしいのだ。 すべてを捨てて 二人で逃げようと瞬に訴えることをした氷河が、よりにもよって。 「おい、氷河。そのシュンちゃんとやらが、どんだけ おまえ好みの可愛子ちゃんだったのかは知らねーけど、シュンちゃんを見付け出すまで聖域には帰ってこないって、おまえ、まじで言ってんのか !? おまえは地上の平和を守るために戦う アテナの聖闘士なんだぞ!」 「アテナには、欠席届けでも出しておいてくれ」 「聖域は学校じゃねーんだよ! 『理想の恋人に会ったので、欠席します』が通るわけないだろ。常識で考えろ!」 「やかましい! 地上の平和を守るために戦うなんて、聖域にいなくてもできることだ。実際、これまでは、邪悪の徒が現われるたび、俺たちは 毎回 遠征していたじゃないか」 「それと これとは話が違うだろ! ったく、この頃 毎日 聖域を抜け出してるから、何かあったのかと思ってたら、これだよ。おまえには、アテナの聖闘士としての自覚とか責任感ってものがないのか!」 「週に一度は、アテネの町に バクラヴァ食い歩きツアーに出ている貴様にだけは言われたくない!」 壮絶な決意を胸に アテナ神殿に入ろうとしていた瞬の行く手を、地上の平和を守るために 命をかけて戦う者であるはずのアテナの聖闘士たちの ふざけた やりとりが遮る。 その場に 呆然と立ち尽くしている瞬の存在に気付いて、大喧嘩中の聖闘士たちを たしなめてくれたのは、長い黒髪の青年――彼も聖闘士らしい――だった。 「星矢、氷河。見苦しい喧嘩は そのへんでやめておけ。助祭長が、今日 聖域に来ると言っていた新顔のようだ。長いこと空位になっていたアンドロメダ座の聖闘士だな。おまえら、先輩なんだから、少しは威厳のあるところを見せたらどうだ」 「そら、見ろ。俺一人くらい 聖域を留守にしても、俺より ずっと真面目で 意欲と希望に燃えた頼もしい新入りが、いくらでも――」 自分より ずっと真面目で 意欲と希望に燃えた頼もしい新入りを、自らのサボタージュの正当化に利用しようとしたらしい氷河が、 アテナ神殿のファサードに建つ新入りの上に視線を巡らせてくる。 そこに立つ新入りが何者なのかを知ると、彼は 不自然なほど唐突に静かになった。 そして、頼もしい新入りを見詰めたまま、仲間を振り返ることなく仲間に告げる。 「星矢。アテナへの欠席届けは出さなくてよくなったようだ」 冗談なのか そうではないのかの判断に迷うことばかりを言う氷河が、今日も 全く真顔なことが、瞬の許に 軽い目眩いを運んできた。 Fin.
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