「結局、瞬ちゃんまで登板したの? ドンペリ50本じゃすまない贅沢三昧ね」 「いったい 誰が仕組んだんですか」 「誰なのかしら。ほんと、迷惑よね。おかげで、私まで10年振りにシェイカーを振ることになっちゃったわ。あー、疲れた!」 蘭子が、その たくましい腕で、どすどすと 自分の肩を叩く。 彼女の無茶な出向指示(明白に、職業安定法第44条違反である)を咎めるために氷河の店に赴いた瞬は、それで 蘭子に文句の一つも言えなくなってしまったのである。 開店準備中の店にいるのは、まだ 店の関係者三人だけだった。 「ま、借金の返済問題は残るけど、少なくとも 今より借入金が増えることはないでしょうし、アタシたちにできるのは、ここまでよね」 「あれで お父様の気持ちに気付いて、考えを改めてくれなかったとしたら、彼女は、氷河がホストなんて無理な仕事を一ヶ月もするだけの価値のない人です」 「ま。優しい瞬ちゃんが、今日は随分と辛辣」 「ちゃんと わかったならいいが……。俺には、あの馬鹿娘よりナターシャの方が百倍も賢く見えたぞ」 「ん……」 本音を言えば、その点に関しては、瞬も氷河に同感だったのだが、ここで賛同の意を示しても、氷河を喜ばせるだけなので、瞬は あえてナターシャの賢さにはコメントを付さなかった。 「氷河に ホストなんて仕事を 一ヶ月も続けさせるなんて、女王様にもできない贅沢でしょう。きっと彼女は 自分の価値に気付いてくれたよ。彼女は――自分が多くの人に愛されていることを、自分が誰かに必要とされていることを 知らなかっただけなんだ」 「だったとしても――まったく……あんな ろくでなしに入れあげるとは。一目見ただけで、軽薄なチンピラだということはわかるだろう」 「わかりきったことが わからなくなるのが恋だよ」 氷河の口の悪さを諫めるために言った瞬の言葉に、 「瞬ちゃん。それって瞬ちゃんの経験談?」 蘭子から 思いがけない突っ込みが入る。 何か言葉を発すると、氷河が機嫌を悪くするか、自分の立場が悪くなる。 瞬は、微笑とも苦笑とも判断し難い薄い笑みで、蘭子の突っ込みを やり過ごした。 瞬の大人な(ずるい)対応に、蘭子が、それでなくても筋肉が盛り上がっている肩を 大袈裟に すくめてみせる。 「恋に関しては、氷河ちゃんの方が理性的だったのね」 「俺は常に理性の塊りだ」 言うだけなら、氷河の勝手である。 理性が泣きながら店の外に逃げていく姿を見たような気がしたのだが、瞬は あえて 彼(?)を追うことはしなかった。 泣きながら立ち去る理性より、今の瞬には、もっとずっと気に掛かることがあったのだ。 「とにかく、どんな事情があっても、もうホストはやめて。よその家の娘さんのために、こんな真似までする氷河が、ナターシャちゃんためとなったら、それこそ この先 何をしでかすかわかったものじゃない。僕は不安というより、恐いよ。本気で」 これは 冗談ではなく、真面目に、本気で、瞬は恐かった。 氷河には、いつ いかなる時も“愛”こそが正義。 氷河は、彼が愛するもののためなら 何でもする男なのだ。 クールでないことに定評のある氷河は、愛のためになら、恐ろしく冷酷にもなるし、取り返しのつかない過ちを犯すことも ないとは言えない。 瞬が恐れるのは、氷河が ナターシャのために、ナターシャのパパでいる資格を失うような過ちを犯してしまうことだった。 瞼に憂いの色を にじませている瞬の上に、蘭子が、瞬の懸念が理解できないと言わんばかりの視線を向けてくる。 「氷河ちゃんは、瞬ちゃんがいるから ナターシャちゃんも自分も 道を誤ることはない――って言ってたわよ」 「……僕が 何をしても、何を言っても、最終的に 自分の進む道を選ぶのは ナターシャちゃんと氷河ですから」 「そのナターシャちゃんと氷河ちゃんが、瞬ちゃんの指し示す道を行くって決めてるんだから」 だから大丈夫。と、蘭子は言う。 蘭子に反論しようとして、瞬は結局 そうするのをやめた。 今 ここで そんなことを議論しても無意味。 その時が来なければ、そして、その時が過ぎ去ってしまわなければ、何が正しく、何が誤っていたのかということは、誰にも わからないものなのだ。 「そんなふうに、きっと 誰にでも道しるべのような人がいるのよ」 いつも明るく豪快な蘭子が、しみじみした口調で 瞬を慰撫――慰撫だろう――する。 「蘭子さんにも? どんな方です?」 瞬が尋ねると、蘭子は 虚を衝かれたように 真顔になった。 おそらく蘭子にも “彼”の道しるべたる大切な人がいたのだろう。 悪いことを訊いてしまったかと、瞬が自分の軽率を悔いた 次の瞬間には、蘭子はもう いつもの蘭子に戻っていた。 「ひ、み、つ」 もちろん、詮索するつもりはない。 瞬はただ、蘭子が とても好きだったので、彼女を今の彼女にしてくれた 蘭子の道しるべたる人に、胸の中で深く感謝した。 Fin.
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