瑠璃色の謎






秋の空が高く見えるのは、空気中の水蒸気の量が減り、空の透明度が増すかららしい。
水蒸気の量が減り、上昇気流も弱くなると、雲の姿も 夏の積乱雲から秋の巻積雲に変わってくる。
瞬は、城戸邸の庭にあるベンチに腰を下ろし、いよいよ深まっていく水色の秋の空を ぼんやりと眺めていた。

晴れた空、澄んだ空気、あと1度2度 下がれば“肌寒い”と感じることになるだろう、絶妙の気温。
毎年 駆け足でやってくる冬は、そろそろスタートラインの確認を始めた頃だろうか。
秋に、人が外気に触れたがるのは、まず間違いなく、人が夏と冬の厳しさを知っているからである。
そして、秋の穏やかさの価値を知っているから。
であればこそ、瞬と同じように 彼も秋の庭に出てきていたのだろうに、
「なに、こんなとこで ぼんやりしてんだ? サンマでも食いたくなったのか?」
星矢の声は、真夏の入道雲のように勢いよく元気だった。

しかし、なぜ ここでサンマが出てくるのか?
――という瞬の疑念を、瞬の代わりに言葉にしてくれたのは、星矢の隣りに立っていた紫龍だった。
「なぜ、ここでサンマが出てくるんだ」
紫龍に問われた星矢が、『なぜ ここでサンマが出てくるのか』という質問が なぜ ここで出てくるのかという顔になる。
「空には うろこ雲があるし、サンマの旬も そろそろ終わりだろ。今年の秋の最後の名残りにサンマを食いたいと思うのは、一人の人間として至極 自然な心情じゃん」
自然な心情も、人それぞれである。
残念ながら、瞬の自然な心情は、サンマには向いていなかった。

「サンマじゃなくて、竜胆」
「リンドウ?」
「うん。竜胆の花の季節が終わっちゃったなあ……って」
「んな、食えないものの旬が終わったって、別に どうってことないだろ」
「……」
それが、星矢の“自然な心情”。
いつもなら、そんな星矢の星矢らしさに、それこそ自然に笑みが浮かんでくるところなのだが、今日は その力が湧いてこない。
瞬は無言で星矢の顔を見詰め、口許だけで力ない笑みを作った。

「なんだよ?」
それが おざなりに見えたのか、投げやりに見えたのか、星矢が 機嫌を損ねたように 口で への字を描く。
「星矢じゃないことだけは確かだなあ……って思ったの」
「何がだよ!」
瞬が何を言っているのかは皆目わからない――が、褒められたのでないことだけは感じ取れたのだろう。
星矢は、今度は 真夏の雷雨のような勢いで、瞬に説明を求めてきた。

瞬は、その勢いに驚いて 二度三度と瞬きを繰り返すことになったのである。
秋の穏やかに すっかり染まっている瞬と、夏の勢いを維持している星矢。
紫龍が、対照的な 二人の調停に入ることになった。
「竜胆の根は漢方薬に使われる。健胃作用があって、胃の不調に効果があるから、星矢に無縁ということも――」
『ないだろう』と続くはずだった紫龍の言葉を、
「俺、自慢じゃねーけど、胃腸薬の世話になったことは、生まれて この方、ただの一度もないぜ」
という星矢の断言が遮る。

「それは実に羨ましい話だ。誰のせいとは言わないが、俺は日に一度は必ず 胃が きりきりと痛む。で? 竜胆がどうしたって?」
思い切り露骨に話を逸らされたことに、またしても むっとして物申そうとした星矢を、今度は、
「竜胆というのは、どんな花だ」
という声が阻止した。
氷河が、いつのまにか その場にやってきていた――らしい。
否、あるいは、もしかしたら彼は 最初から――星矢と紫龍がやってくる前から――その場にいたのだったかもしれない。
気配を消していたために、瞬が気付かずにいただけで。

「え?」
突然 割り込んできた もう一人の仲間の声と姿より、彼の発言の内容にこそ、瞬は驚いたのである。
そして、瞬は、がっかりしたように両の肩を落とした。
「おまえ、薔薇の花は やたらと詳しいのに、他の花は駄目なのかよ?」
星矢の機嫌が 唐突に よくなったのは、自分が氷河より上位レベルにあることを、確信できたからのようだった。
いわゆる マウンティング。
なにしろ 星矢は、竜胆が どんな花なのかを ちゃんと知っていたのだ。

「竜胆って、あれだろ。“勇気りんりん瑠璃の色”の、野原に咲いてるやつ。最近、全然 見ないけど」
星矢が竜胆の花を知っているのも意外だが、彼が 半世紀以上も昔の歌の歌詞を知っていることは もっと意外である。
“少年探偵団のうた”など、星矢はいったい どこで耳にしたのだろうと訝りながら、瞬は星矢に頷いた。
「そうだね。野生の竜胆は減ってるみたい」
晴れた日にだけ 花を開く瑠璃色の秋の花。
野生の竜胆は、決して群生せず、必ず1本ずつ咲く孤高の花である。

「公園の向こう側にね、ちょっと野趣あふれるお庭を構えてる お宅があって、そこに竜胆の花が咲いてたんだよ。もちろん野生種じゃなく、園芸用の種だったんだけど……。僕、その庭の前を通るたびに、綺麗な花を楽しませてもらってたの。でも、今日 その庭の前を通ったら、竜胆の花が全部終わってしまってて……。それで、ちょっと がっかりしちゃったんだ」
「俺たちが子供の頃は、野原や川の土手で よく見掛けたものだが……。ここの裏庭の林の脇の日当たりのいいところでも咲いていたな」
「だから、食えないものの旬が終わったって、どうってことないって。竜胆の花は、来年 また咲くぜ!」

星矢らしい励まし方に、瞬は 今度ははっきりと微笑した。
少し、寂しい気持ちで。
去年の秋に、瞬も同じことを思ったのだ。
竜胆の花は 来年も咲く――と。
そんなことを思っても、慰めにも希望にもならないということは わかっていたのに。
瞬が求める竜胆の花は、過去の秋に咲いた竜胆の花だったから。

「何か、大切な思い出でもあるのか」
瞼を伏せた瞬に、察しのいい紫龍が問うてくる。
「ん……」
瞬は、紫龍が口にしたものを探すように、視線を秋の空に向けた。
“大切な思い出”。
時の流れは 瞬の周囲のいろいろなものを変えてしまったが、高いところにある水色の秋の空の色だけは、瞬が幼い頃に見上げていた空の色と変わっていない。
それは、瞬の記憶の中にある秋の空の色と 全く同じだった。






【next】