太陽が爆発しても死にそうにない一輝の安否など 気に掛けたこともなかったし、一輝の顔は 見て幸せになれるようなものでもない。 何としても一輝に会いたいわけではなかったのだが、瞬のために、瞬に指定された日、瞬に指定された時刻に、星矢は 氷河のマンションに出掛けていったのである。 光が丘公園で、同じように瞬のためにやってきた紫龍と合流し、二人が 氷河(と瞬)のマンションに到着したのは、約束の時刻を1、2分過ぎた頃。 マンションのエントランスゲートを開けてもらうために、操作パネルから氷河の部屋をコールしようとした時、星矢たちは、エントランスホールに置かれたスツールに不機嫌極まりない顔をして鎮座ましましている瞬の兄の姿に気付いたのだった。 黒いサングラス着用。 服も靴も黒づくめ。 『その黒づくめの風体は、見るからに怪しすぎるから、せめて白いマスクだけでもつけたらどうだ』と提案して殴られて以来、星矢は彼の出で立ちにはノーコメントを貫いていたが、一輝は今日も その恰好。 黒いサングラスをかけた人間が 更にマスクで顔を隠したら、もっと怪しい風体になることは、一輝も承知しているようだった。 「一輝。おまえ、こんなとこで何してんだ?」 反社会的勢力団体の一員、あるいは押し売り、もしくはテロリストと間違われて 警備員に締め出しを食ったのか。 一輝なら、そういう誤解を受けることもあり得なくもないので、星矢は、極めて真面目な顔で――つまりは 笑わずに――尋ねた。 尋ねてしまってから――だが、もし そうなのであれば、エントランスホールにいること自体が許されず、マンションの敷地の外に追い出されているはずだということに思い至る。 一輝のような風体の男がエントランスホールに陣取っていたら、マンションの住人たちが恐がって、出入りができないだろう。 にもかかわらず、一輝が ここにいるということは、彼は警備員にゲートを通り抜けることを禁じられたわけではなく、彼の意思で あえてゲートを通り抜けずにいるということになる。 だが、何のために? 何をしているのだと、星矢に尋ねられた 一輝は、マスクをしていない口をへの字に歪めて、まず 自分が非常に不機嫌でいることを、仲間たちに示してきた。 それから、エントランスゲート脇の壁に掛かっている時計を睨み、更に むっとする。 むっとして、彼は彼が この場にいる事情を星矢たちに知らせてきた。 「氷河の馬鹿に、ゲートを開けるように言ったら、最後に煙草を吸った時刻を訊かれた」 「へ?」 「ナターシャのいるところでは吸わせてもらえないだろうと思ったから、俺は1本 吸ったばかりだった。そう申告した」 「まあ、ナターシャのいるところでは禁煙だろうな」 「そうしたら、あの糞ったれは、呼気の一酸化炭素濃度が最低でも20ppm以下になるまで、あと30分は部屋に来るなと言いやがった」 「はあ !? 」 「あの馬鹿は、ナターシャを肺癌にするつもりかと わめいて、俺を発癌性物質扱いしてくれた」 「あー……それは……」 一輝の不幸は、おそらく彼が 彼の最愛の弟に深く慕われていることに原因がある。 瞬が兄を 普通に慕っているだけだったなら、氷河も そこまで一輝を迫害することはないのだ。 あと何十年 経てば、この二人が 角付き合わせることなく、友好的な関係を持てるようになるのだろうと、彼の仲間たちは 胸中 密かに嘆息した。 「ナターシャは氷河の部屋にいるのだろう? 瞬の部屋で時間を潰せばいいではないか。なにも こんなところで、そんな凶悪な顔を さらして マンションの住人たちを恐がらせていることはあるまい」 紫龍の妥協案は、 「瞬の部屋もナターシャの生活圏。とにかく、ナターシャが足を踏みいれる場所の空気を汚すことは許さんそうだ」 既に、氷河によって却下されていたらしい。 星矢と紫龍は、今度は胸中ではなく、胸の外で嘆息した。 その理屈でいえば、このエントランスホールもナターシャの生活圏だろう。 氷河のそれは、ほとんど嫌がらせに類されるものだった。 事実 嫌がらせだったのかどうかは ともかく、一輝は そう受けとめたようだった。 「氷河のツラなど、こんな嫌がらせを受けてまで見たいものではない。俺は帰るぞ。貴様等が来るのを待っていた。俺は帰ったと、瞬に伝えてくれ。俺は、瞬との約束を守って、ここまでやってきた。俺が瞬に会わずに帰るのは、俺の意思ではなく、氷河に そうするよう仕向けられたからだ」 そこのところをちゃんと瞬に伝えるように厳命するために、一輝は ここで仲間たちの来訪を待っていたらしい。 しかし、それは 星矢には 到底遂行できない命令だったのである。 「待てよ! んなことしたら、俺が瞬に恨まれるだろ!」 恨まれるなら、まだまし。 瞬に 目の前で しょんぼりされたら、対処のしようがない。 その事態を避けるために――掛けていたスツールから立ち上がり、そのまま本当にマンションを出ていこうとする一輝の腕に、星矢は 文字通り すがりついた。 一応 病み上がりということになっている仲間を 突き放すことは、さすがにできなかったのだろう。 一輝が、いかにも不本意といった体で、元の場所に戻る。 わざわざ出向いてくれた客を、こんな形で足止めする氷河も大概だが、氷河の嫌がらせに腹を立てて、瞬に会わずに帰ろうとする一輝も子供じみているぞ。 紫龍は そう言って、一輝の大人げのなさを たしなめようとしたのだが、その直前で 紫龍は思い直した。 一輝は、十分に(彼にしては)大人の対応をした。 「それで、こんなところで大人しく待っているとは、おまえも大人になったものだ」 一輝は、ちゃんと大人になっている。 ここは一輝を たしなめる場面ではなく、むしろ 称賛する場面なのだ。 「無論、文句は言ったぞ。煙草は駄目で、酒はいいのかと。貴様こそ、呼気中アルコールでナターシャをアル中にする気なのかと、ちゃんと言ってやった」 「……」 せっかく見直してやったのに、結局 氷河と同レベルか――と、言葉にしてしまわないところが、紫龍の“大人げ”である。 「なるほど。で、氷河は何と?」 ちゃんと(?)大人げない態度を取っていたらしい一輝に、少々 疲労感を漂わせて、大人な紫龍が尋ねると、 「酒も煙草もやる男が、何を寝ぼけたことを言っているんだ!」 一輝は、子供らしく元気な声で答えを返してきた。 「だと。ナターシャが来てから、奴は家で酒を飲むのは 一切やめたそうだ」 「は……」 子供というものは、いつも元気なものである。 氷河と一輝の子供らしさに比べたら、案外 星矢の方が彼等より大人になっているのかもしれなかった。 「ははは。ああ、でも、氷河は、嫌がらせじゃなく、本気でナターシャのために んなこと言ってるんだと思うぞ。氷河はマザコンは完治したけど、その分、今は立派な親バカになってるから」 「うむ。氷河の親バカ振りの見事なことと言ったら、あれはもう病気だな。氷河は、ナターシャと一緒に親バカという新たな病気を拾ってきてしまった。氷河は結局 病気のままだ」 「新たな病気も何も、奴は昔から馬鹿だった」 何を今更。 一輝が そんな顔をして、“何を今更”なことを言う。 一輝が口にした“何を今更”なことに、星矢も頷いた。 「だから、氷河は もっと馬鹿になったの。ナターシャの言うことは何でも聞いてやって、ナターシャの欲しいものは何でも買ってやるし、ナターシャのためなら 平気で仕事もさぼるし、ほとんど毎日 公園に行って、ナターシャと遊んでやってる。親バカってのは、“親”と“馬鹿”の両方を兼ね備えた人間のことを言うんだろうけど、氷河は“親”の部分を ほとんど放棄してる。ナターシャが何をしでかしても、絶対 叱れないし」 「それで、氷河自身が 瞬に叱られている。あれは もはやギャグだな」 「そうそう、ギャグだよな、あれ。こないだ 俺たちが氷河んちに遊びに来た時さあ、ナターシャが はしゃいで、ジュースの入ったカップをテーブルから落としたんだよ。そうしたら、氷河は、ナターシャが悪いんじゃなく、地球に重力があるのが悪いんだとか言い出してさ。それで、子供じみた言い逃れは ナターシャの教育上 よろしくないからやめろって、瞬に こっぴどく叱られてやんの」 「それくらいなら、まだギャグで済むが……。一輝。おまえ、デスマスクの腹下しの件は聞いてるか?」 一事が万事。 氷河の馬鹿の事例は一つ聞けば十分――と、本音を言えば、一輝は思っていた。 しかも あまり美しい話ではなさそうなのに、それでも一輝が、 「何だ、それは」 と問い返して、デスマスク腹下し事件の仔細を語るよう 仲間たちに促したのは、それが 身内とは言い難い人物(しかも死んだはずの黄金聖闘士)に関わる話のようだったから。 そして、星矢が その件を瞬の兄に告げ口をしたくて たまらなさそうにしているのが見てとれたからだった。 『聞きたくない』と言っても 星矢は語り出すだろうし、呼気の一酸化炭素濃度が最低でも20ppm以下になるまでには、まだ時間がある。 だから 一輝は デスマスクの腹下し事件の仔細を聞いてやることにしたのである。 聞いてしまってから、聞かなければよかったと、悔やむことになってしまったのだが。 |