「それで、ナターシャちゃんは、僕をマーマと呼ぶようになったんです。僕をマーマと呼べなんて、氷河はナターシャちゃんには一言も言っていませんよ」 瞬は、そんな事実で 一輝の勘気が解けると思っているのだろうか? ――と、星矢は暫時 迷ったのである。 そんなことで、一輝の怒りが消え去るはずがないのに――と。 星矢の予想通り、一輝は その怒りを静めなかった。 むしろ、それは彼の怒りを更に大きく激しくした。 「それこそ、氷河の策略だろう! その条件を満たす人間は、おまえしかいないんだから!」 そう言い終えた瞬間に、一輝が舌打ちをし、瞬が微笑する。 その条件を満たす人間は瞬しかいないと、一輝が認めること。 一輝に認めさせることが、瞬の望みだったのだろう。 今の瞬には、一輝でも太刀打ちできない。 瞬は、兄を言い負かすつもりではないから――勝とうとしてはいないから――かえって、誰も瞬に勝つことはできないのだ。 瞬は いつも、自らの戦いを、勝つためではなく、誰かを守るために行なう。 「だから、僕はナターシャちゃんのマーマなんです。僕は、ナターシャちゃんに選んでもらったの。そのことを 光栄に思いこそすれ、その名誉ある称号を拒むことなんてできない。僕は、ナターシャちゃんに マーマに選んでもらえるほど綺麗でもないし 優しくもないよ――なんて、謙遜もできなかった」 「し……しかしだな……」 「兄さん。僕は、子供の頃から ずっと――いつも兄さんに憧れてたんです。兄さんを尊敬して、感謝してた。兄さんのようになりたいと思ってた。兄さんは、弱くて臆病で泣き虫だった僕を、守り庇い育ててくれた。僕は、いつだって 兄さんのようになりたかったんです」 「瞬……」 それは 絶対に氷河の計略だと思う。 氷河は、瞬をナターシャのマーマにすることを企み、その企みを実行した。 絶対に そうだったと確信できる。 にもかかわらず―― 一輝は、切なげに微笑む瞬の前で 何も言えなくなってしまったのである。 そして、一輝は黙り込んでしまった。 『ならば、俺を見習って、立派にナターシャを育てあげろ』は無理でも、せめて『ならば、仕方がない』。 それも無理なら、最低でも『そうか』の一言。 一輝が蹴りをつけなければ 埒が明かないこの場面で、一輝は沈黙を守り続ける。 この期に及んでも 一輝は意地を張り続けるのかと、星矢は呆れ苛立ったのだが、そうではなかったらしい。 紫龍に肘で脇腹をつつかれて、星矢は その事実に気付いた。 一輝は、最愛の弟の言葉に感動して、『そうか』の一言も言えない状況に陥っていたのだ。 本当に面倒くさい男である。 とはいえ、ここで一輝以外の人間が この場に蹴りをつけるわけにはいかない。 どうしたものかと思いあぐねているアテナの聖闘士たちに 救いの手を差しのべてくれたのは、瞬が守り庇い育てようとしている小さな女の子だった。 「イッキニイサーン」 感情を表に出さない男の心を感じ取る才能に恵まれているナターシャには、一輝の心の変化も容易に読み取ることができたらしい。 ナターシャは にこにこしながら、その小さな手をイッキニイサンの方に伸ばした。 「マーマは、イッキニイサンを世界でいちばんソンケイしてるんだって。イッキニイサンはすごくリッパなんだヨネ。マーマにソンケイされてるんだから」 「……」 一輝も、ナターシャに、『俺はそれほどリッパな男ではない』と謙遜することはできなかったらしい。 ナターシャが そう信じてくれているのだ。 『違う』とは言えない。 『違う』と言えなかった瞬の気持ちが、一輝にもわかってしまったようだった。 何より、『マーマ(瞬)が、世界でいちばん』というフレーズが( =『氷河より上』というフレーズが)一輝の心を捉えたのだろう。 一輝は、まんざらでもなさそうな様子で、怒りの表情を消し、強張らせていた頬の筋肉を緩めた。 氷河の表情と感情をさえ正確に読み取ってのけるナターシャに、それが わからないわけがない。 一輝の怒りが消え去ったのを見て取るや、ナターシャは早速 マーマが世界一尊敬しているイッキニイサンに甘え始めた。 「イッキニイサン、抱っこ!」 「……」 一輝の表情が一瞬、再び強張る。 さすがに そこまで甘い顔を見せるつもりはないのかと、ナターシャの人懐こさを案じた瞬に、一輝は『そうではない』と、言葉にはせず、表情にも所作にも出さずに 知らせてきた。 一輝には、抱っこを ためらわなければならない別の事情があったのだ。 「俺は今から30分ほど前に煙草を吸った。それで氷河に足止めを食らった」 「え……」 兄と仲間たちが居住区に上がって来ずに、エントランスホールに留まっていた事情を知らされた瞬は、困ったような顔になり、そして二度三度と瞬きを繰り返すことになった。 招待した客を 門前で待たせるようなことをする氷河の非礼を申し訳なく思う気持ちと、氷河の厳しい対応を致し方ないと思う気持ち。 氷河に そんなことを言われて大人しく こんなところで待っている兄と、兄に付き合わされる羽目になった星矢と紫龍。 しかも、兄は、自分がナターシャを抱っこしても問題はないのかと、本気で案じているらしい。 そういう状況下で どういう顔をすればいいのかが、瞬には わからなかったのである。 わからないまま、上着のポケットから、常時携帯しているピルケースを取り出す。 「とりあえず、これを。水無しで飲めますから、そのまま噛んでください」 呼吸の清涼カプセルを 兄に渡して、瞬は 氷河の非礼の弁解をした。 「氷河も、お酒を飲んだあとは、これを飲んでからじゃないと ナターシャちゃんを抱っこしないんですよ」 「へえ。氷河の奴、一輝にだけ厳しいわけじゃないんだ」 星矢のフォローは 功を奏したのかどうか。 長い付き合いの一輝の仲間たちにも、それは掴み切れなかった。 瞬に差し出されたものを大人しく(文句も言わず)口中に放り込み、ぼりぼり齧る一輝を、“瞬の言いつけを守る素直な いい子”と おだてれば、一輝は かえって臍を曲げるだろう。 だから、一輝の仲間たちは、清涼カプセルを飲み込んだ一輝が 瞬からナターシャを受け取り、小さな姪を抱っこする様を、何も言わずに(顔を引きつらせながら)見守っていたのである。 その様は、どう見ても、黒いサングラスの危険な殺し屋と、純真な少女。 見事に怪しさ100パーセントの光景なのだが、一輝は存外に嬉しそうだった。 少なくとも、文句は言わなかった。 「一輝の奴、もしかして実は妹が欲しかったとか?」 「一輝は昔から清純派に弱いからな」 「イッキニイサン、黒メガネしてない方がイケメンダヨー」 「ふん。まあな」 一輝は、懸命に 相好を崩さぬよう、こめかみと口許の筋肉を緊張させている。 だが、ナターシャにサングラスを外され、頬をすりすりされても何も言わないあたり、一輝の無条件降伏は明白だった。 「駄目だ。完全に術中に陥ってる」 これが、十代の頃から最強の呼び名を ほしいままにし、その生命力は人外とまで言われていた男の 成れの果てなのかと思うと、星矢は、情けないやら呆れるやら、幼い子供を武器にして 敵を手玉に取り、着々と 己れの幸福の地歩を固める氷河の卑怯に 腹を立てないわけにはいかなかったのである。 「キチガイに刃物、ダイナマイトにマッチ、水酸化ナトリウムにアルミニウム、乾燥剤に水、瞬にネビュラチェーン、氷河にナターシャ。組み合わせると最強にして最凶。一輝もイチコロ。向かうところ、敵なしだな。氷河にとって、ナターシャと瞬は 最強の矛と最強の盾だ」 「氷河の卑怯は、今に始まったことじゃないけどさあ。ナターシャが、世界一綺麗で優しくて強い人は蘭子ママだって言い出したら、氷河の奴、どうするつもりだったんだ。ナターシャに 自分で選べって言った手前、瞬を指名するわけにはいかなかったろうし、氷河も かなり危険な橋を渡ってるよな」 「氷河は、石橋を叩いて その安全性を確認するようなことはしないが、今にも崩れ落ちそうな危険な橋も、不思議と氷河が渡り終わるまでは崩れ落ちないからな」 その異様なまでに運のいい男は、一輝を足止めした手前、ナターシャたちを迎えに来るわけにもいかず、今頃 自分の部屋で 大量のおはぎを前に 一人 やきもきしているのだろうか。 だが、今は もう少し。 もう少しだけ、兄弟の時間を 一輝と瞬に。 「ナターシャちゃん。一輝兄さんに抱っこしてもらえて よかったねー」 「イッキニイサンの髪、つんつんしてて面白いヨー」 涙で瞳を潤ませて、いつも兄のあとを追いかけていた小さな弟が、世界一 優しくて綺麗で強い人として選ばれるまでになったのだ。 幸せで切ない兄のために、氷河は もう少し我慢すべきだと、星矢は思った。 Fin.
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