翌日早朝。 「9人目が来た!」 と胴間声を響かせてラウンジに飛び込んできたのは、子獅子座の聖衣を持ち帰ってきた蛮で、実を言えば、俺は聖闘士になって帰国して初めて、奴の名を知った。 9人目は、どうせ一輝。 そう決めつけていた俺は、9人目の聖闘士の登場に さほどの感懐は抱かなかったんだが、星矢と紫龍は にわかに顔を曇らせた。 星矢たちは、仲間の生還を喜ぼうにも 喜べなかったんだろう。 瞬が帰ってきていないことを 一輝に知らせる役を引き受けたくないのか、二人は 掛けていたソファから立ち上がることもしなかった。 だが。 「聞いて驚け! いや、見て驚いた方がいいな。今、エントランスにいる。9人目は、なんと瞬だ!」 「なにっ !? 」 と声をあげたのは、俺だったのか、星矢だったのか、紫龍だったのか、他の誰かだったのか。 反射的に、俺は、ラウンジのドアの脇に立っていた邪武と檄を押しのけて、エントランスに向かって走り出した。 一輝が帰ってきていないことを瞬に知らせる役を引き受けることになっても――そんなことは どうでもよかった。 俺の小さな可愛い瞬。 小さな白い手を 俺の痛む指に かざし、包み、真剣な目で、『痛いの痛いの飛んでけ』と優しい声で囁いてくれた瞬。 瞬が生きて帰ってきた。 瞬にもう一度 会える。 頭の中で、そんな ありきたりな文章を形作ることさえできず――つまりは何を考えることもできず――エントランスホールに駆けつけた俺は、そこで奇妙なものを見ることになった。 広いエントランスホールの正面入り口。 そこにいたのは、昨日 チンピラに絡まれていた、あの女。 瞬の思い出を語った俺に、『ここ、笑うところ?』と訊いてきた、あの無礼女だったんだ。 ぽかんと、困ったような苦笑を浮かべて。 いったい何がどうなっているのか わからず、ぽかんとして その場に突っ立っている俺に、無礼女が 困ったような微笑を浮かべてくる。 「兄さんが帰ってきていないと知って――僕、見世物にされるのも不本意だったし、城戸邸に来るのをためらっていたの。あのまま逃げようかと思っていたんだけど、氷河が、兄さんは絶対に生きているって言ってくれたから――生きているのが9人だけっていう情報の方が間違っている可能性もあるかもしれないと思って――」 無礼女が何かを言っていたが――その声は ちゃんと聞こえているんだが――言葉の意味が理解できない。 俺は、今 突然 馬鹿になったのか? 俺は 自分を利巧な人間だと思ったことは 一度もないが、それでも 俺は 言葉がわからないほど馬鹿でもなかったはず。 「いや……だが、これは……つまり……こんなバカな――」 おまけに、日本語もうまく話せない。 いったいどうなっているんだ、俺は。 おかしいのは、俺ではなく、この世界なのか、もしかして? 「好きだって言っている割に、僕のことがわからない。僕は、一目見て、氷河が氷河だと わかったのに」 「……」 もう二度と会うこともない相手だと思って、俺は 俺の裏事情を この無礼女に すべてぶちまけてしまった。 この無礼女が、俺の瞬、あの優しかった瞬だというのか? これ……これが? 「わ……わかるか! 俺の好きな瞬は、歴とした男子だったんだ!」 瞬への告白の計画と練習の中で、俺がいちばん頭を悩ませたのは、女の子じゃない瞬をどう説得するかということだった。 どう口説けば、瞬に嫌われずに済むか、どう働きかければ、瞬に逃げられずに済むかということ。 瞬は誰よりも優しくて可愛いから、女の子じゃなくても好きになって当然だと、俺の瞬への思いは、そんなものを凌駕するほど強く崇高なものなんだということを、瞬にわかってもらうための理論の構築。 あの小さくて細かった瞬が、どれほど ごつく男らしくなっていても動じない胆力の維持。 そんなことには あれこれ苦慮したが、これはいったい どういうことだ? 今 俺の目の前にいるのは、どこから何をどう見ても華奢な少女だ。 俺の瞬は、実は女の子だったのか? いや、それはない。 なら、これは俺の瞬じゃないのか? それもなさそうだ。 「だが、俺の瞬は、間違いなく男の子で……」 状況把握ができず、その言葉を繰り返してしまったのが よくなかったらしい。 瞬らしき少女は、上目使いに俺を睨んできた。 「僕、強くなったんだよ。昨日の柄の悪い人が一度に300人 かかってきても、一瞬で退けられるくらい。試してみる?」 瞬(なのか?)は、俺に馬鹿にされたと思ったのか、本当に その場で小宇宙を燃やし始めた。 それは、俺が好きになった瞬に ふさわしく温かい小宇宙で――俺を睨んでいる女の顔より ずっと瞬らしく優しい小宇宙で――。 やはり、これは俺の瞬らしい。 俺が息苦しさを覚えたのは、瞬の小宇宙のせいか、瞬が生きていた事実を やっと実感できるようになったからなのか。 瞬の優しい小宇宙は なかなか強力で(瞬が本気で怒っているわけじゃないことは、その小宇宙でわかったが)、そのまま黙っていたら、俺は 本当に嬉しさに(?)窒息して ぶっ倒れてしまっていたかもしれない。 俺が そんな無様を さらさずに済んだのは、仲間たちのおかげだった。 「瞬!」 「瞬、よく……」 星矢と紫龍が、信じられないものを見る目で、嬉しそうに、旧友の側に駆け寄っていく。 星矢は特に、瞬には世話になっていたからな。 瞬は、星矢たちの前では いい子でいることにしたのか、いったん小宇宙を燃やすのをやめてくれた。 「星矢、紫龍! 久し振りだね!」 「ほんとだよ!」 「9人ではなく10人だったのか」 紫龍も、一輝の生存を疑っていないらしい。 紫龍の呟きを聞いて、瞬は 心から嬉しそうに――とても優しい笑顔になった。 「みんなが 一輝兄さんが生きてることを信じてるのに、僕が信じられないなんて、本当に おかしなことだった。気付かせてくれて ありがとう、氷河」 瞬が小さな声で、俺に礼を言ってくる。 それから 瞬は、もっと小さな声で、 「告白の練習していたの、無駄になった?」 と、俺に訊いてきた。 無駄にしたくない。 絶対に無駄にしない。 シベリアにいる間、聖闘士になるための修行をしている時以外の すべての時間を、俺は その計画立案と練習に費やしたんだ。 本音を言えば、過酷な修行も、『瞬に好きだと告白するまでは死ねない』で乗り切った。 無駄になどするものか。 俺は、“勿体ない精神”と“地球にやさしい”をモットーにしたエコロジストなんだ。 「この先、俺が戦いで怪我をしたら、“痛いの痛いの飛んでけ”をしてくれるか」 星矢たちが、何を言ってるんだという顔をして 俺を見る。 幼い子供なら ともかく アテナの聖闘士に、“痛いの痛いの飛んでけ”も何もあったものじゃないだろう――という顔。 いいんだ、こいつらは それで。 瞬が真剣な目をして、 「うん。もちろん」 と約束してくれさえすれば。 「必ず?」 「必ず。“痛いの痛いの飛んでけ”で、たとえ 氷河が死にかけていても、生き返らせてみせるよ」 「怪我をするのが楽しみだ」 「もう……」 困惑したように可愛らしく、瞬が微笑する。 どうすればいいんだ。 この凶悪な可愛らしさを。 これは いったい どういう試練なんだ。 昨日は、可愛いが無礼で生意気な女の子だったものが、今日は、優しく温かく清らかな天使に見える、この不思議。 だが、人間の 人を見る目ってやつは、そういうものなんだろう。 人は、外見だけを取り出して、その人物を評価することはできないようにできているんだ。 その人と過ごした時間、その人を見ていた時間。 その時間が作った記憶。 記憶の積み重ねが、人の評価を決める。 その人が可愛いか、可愛くないのかということすら。 俺の瞬は、間違いなく世界一 可愛い。 そして、優しい。 俺が好きな人なんだから、それは当然。 俺の好きな人は生きていた。 今、俺の側にいる。 俺は、間違いなく 世界一の果報者だ。 まさか 瞬との再会後の最初の怪我を、(やっぱり生きていた)瞬の兄によって負わされることになるとは、その時には夢にも思っていなかったが、それはまた別の話だ。 Fin.
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