『狼と少年』もしくは『嘘をつく子供』は、古代ギリシャの寓話作家アイソーポス(英語読みでイソップ)の作品の中でも、特に有名な寓話である。
数千年の時間をかけて世界中に広まる間に、それぞれの時代に合わせ、それぞれの国情に合わせて 内容が変化し、結末が『オオカミに食べられるのは、嘘をついた少年の羊ではなく 少年自身』となっている場合も多い。
一般的には、“嘘ばかりついていると、真実を言っても信じてもらえない”ことを示し、嘘を戒める寓話――ということになっている。

だから、瞬は、『狼と少年』の お話を聞いたナターシャが ぽろぽろ涙を流し始めたことに、面食らってしまったのである。
嘘をついたことがなく、それゆえ嘘への罪悪感というものを抱いたこともないナターシャは、その寓話に何も感じないかもしれない――というパターンは想定の内だったが、まさか泣き出すとは。
そもそもナターシャは なぜ泣くのか。
瞬には、そこからして わからなかった。

「ナ……ナターシャちゃん、どうしたの」
「ヒツジさん、オオカミに食べられちゃった。ヒツジさんが かわいそうダヨー」
「あ」
ナターシャに 涙の理由を告げられて、そういう感じ方もあるのかと、一応 得心する。
言われてみれば 確かに、何も悪いことをしていないヒツジたちが 嘘をついた少年のせいで 命を落とすのは 極めて理不尽なことだった。

「男の子は、ドーシテ そんな嘘をついたの? 男の子が嘘をつかなきゃ、ヒツジさんはオオカミに食べられなかったのに」
「うん……。もしかしたら、羊飼いの男の子は、毎日 羊の相手ばかりしているのが詰まらなくて嫌だったのかもしれない。男の子は 寂しかったのかもしれないね」
「ヒツジさんは モコモコでかわいいヨ。一緒にいたら楽しいのに」
「そうだね。でも、ほら、羊さんは『メエメエ』としか言わないから、お話はできないでしょう? 男の子は、お話のできる 人間のお友だちがほしかったのかもしれない」
「男の子には、人間のお友だちはいなかったの? パパやマーマは? マーマがいたら、嘘をついちゃだめダヨって、教えてくれるでショウ?」
「きっと、男の子には、人間の お友だちもパパもマーマもいなかったんだろうね」
「……」

瞬に そう告げられたナターシャの瞳に、新しい涙が盛り上がってくる。
ナターシャには もはや、嘘をついて人を騙す行為の是非を考える余裕はないようだった。
「ヒツジ飼いの男の子、かわいそう。男の子は ひとりぽっちだったんだね。寂しかったんだね。ナターシャがいたら、ナターシャが お友だちになってあげたのに……」
ナターシャの瞳が にわかに翳りを帯びたのは おそらく、自分が ひとりぽっちで心細かった時のことを思い出したから。
ナターシャは、まだ完全には あの時のことを忘れてはいないらしい。
瞬は、ローテーブルの向こうに座っているナターシャに方に手をのばし、その頭を撫でてやった。

「ナターシャちゃんは優しいね。でも、ナターシャちゃんは 氷河に会えたんだから、もう寂しくないでしょう? だから、この男の子みたいに、嘘をついちゃ駄目だよ。ナターシャちゃんが嘘をついたりしたら、ナターシャちゃんが寂しがってるんだと思って、氷河が困って泣いちゃうから」
「うん。ナターシャ、嘘つかないヨ。ナターシャには パパとマーマがいるから。だから、パパ、泣いちゃダメ」
ウィルトン織りのラグの上に置かれたクッションに座っていたナターシャが 身体の向きを変えて、ソファに腰掛けている氷河の方を振り返る。
氷河は、ナターシャの不安を消し去るために(そのはずである)、ナターシャの頭を撫でようとして(そのはずである)、ナターシャの頭の上にある瞬の手に 彼の手を重ねてきた。
そして、ナターシャに頷く。

「俺が泣くのは、瞬に叱られた時だけだ」
「イイコにしてれば、マーマは叱ったりしないヨ。パパ、ナターシャと一緒にイイコでいようネ!」
氷河の手は、あまりイイコではない。
「ナターシャちゃん() とっても いい子だね」
暗に『氷河は 全く いい子ではない』と告げる瞬の言葉に、ナターシャは嬉しそうな笑顔になった。
「ナターシャは、ブロックもクレヨンも ちゃんと 自分で お片付けするヨ」
「うん。ナターシャちゃんは すごく立派。氷河も、ナターシャちゃんを見習って」
「俺は いつも いい子だ」

白々しいほどの真顔で そう言い張る氷河を、だが、瞬は、ナターシャの手前、睨むこともできない。
ナターシャを自分の盾にする氷河に対抗して、瞬はナターシャを自分の矛にした。
「そうだったかなぁ。じゃあ、ナターシャちゃん。氷河が これからも いい子でいるように、氷河をイイコイイコしてあげて」
マーマの指令を受けたナターシャが ぱっと瞳を輝かせて、その場に立ち上がる。
「ナターシャ、パパをイイコイイコするー!」
ナターシャは、ほとんど歓声のように そう言って、氷河が掛けている三人掛けソファの上に飛び乗った。

「パパ、イイコイイコ!」
瞬の手をイイコイイコしようとしていた氷河の方が ナターシャにイイコイイコしてもらうことになってしまったが、氷河は それならそれでよかったらしい。
ナターシャに髪をくしゃくしゃにされても、氷河は至極 満足そうだった。






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