星矢と紫龍が 氷河と瞬のマンションを訪ねた目的は、建前は、“クリスマスツリーかケーキのどちらかを ナターシャに贈りたいと申し出るため”だった。 「クリスマスプレゼントは 氷河が張り切って用意するだろうから、何か別のことで、ナターシャを喜ばせることに協力したいと思ったんだが」 というのも もちろん建前で、彼等の本当の来訪目的は、目前にクリスマスが迫った時季の氷河の親バカ振りを 見物すること――だったろう。 実際、ツリーやケーキは既に氷河が手配済みだったのだが、建前は建前にすぎないので、星矢と紫龍は それで落胆するようなことはなかった。 むしろ、予想通りに親バカ振りを発揮し、しかも それが見事に空回りしている事実に大受けで、二人は、 「さすがは氷河。期待を裏切らない」 と、感心しきり。 氷河はといえば、目の前で星矢に笑われ 感心されても、腹を立てる気力すら湧いてこないらしく、出来の悪いサンタクロース人形のように虚ろな目で、掛けているソファで微動だにしなかった。 「笑いごとじゃないよ。それで、氷河は、今 呆然自失状態に陥ってるんだから。まさか、プレゼントをためておくなんて言われるとは思ってもいなかったから」 「ドーシテ、パパがボーゼンしてるノー?」 お客様が来ているので、今日はナターシャは瞬の膝の上。 上体をひねって後ろを振り返り、ナターシャが瞬の顔を見上げてくる。 「ん……。氷河はね、ナターシャちゃんへのクリスマスプレゼントのリクエストを サンタさんに伝えるつもりでいたんだよ。それが、クリスマスのパパのお仕事だから。ナターシャちゃんのパパとして、立派に そのお仕事をするぞーって、氷河は張り切ってたの。だから、ナターシャちゃん、今からでも――」 『何かプレゼントしてほしいものを思いつけないか』と、瞬は言おうとしたのだが、それは、 「『ナターシャはプレゼントを ためておきます』って、サンタさんに言ってくれればイイヨ!」 という、ナターシャの提案に阻まれてしまった。 「氷河の仕事はさておき、ナターシャの歳で それはすごい。きっと、ナターシャは将来 大成するぞ」 「うん。僕も そう思う……」 紫龍が そう言い、そんな紫龍に瞬が賛同したのは、氷河の前でナターシャを褒めてやれば、氷河も少しは浮上することになるかもしれないと、それを期待してのことだった。 期待に反して、そのエサに食いついてきたのは、海の底に沈み切っている氷河ではなく、その場で最も浮かれている星矢だったが。 「何でだよ? 大成する人間ってのは、野心っていうか、野望っていうか、もっと欲が深いものなんじゃないか?」 星矢の疑念は至極尤も。 しかし、人生の成功は、それが意欲であれ 物欲であれ、“欲”のある者だけが得られるものとは限らないのだ。 「大成といっても、いろいろあるからな。マシュマロ実験を知っているか?」 「マシュマロ実験? 人間が マシュマロを何個食えるか、実験したのか?」 星矢の実に星矢らしい応答に、瞬が微苦笑を浮かべる。 今の瞬には、それくらいしか できることがなかったのだ。 「ある意味では、そういうこと。スタンフォード大学の心理学者ウォルター・ミシェルが、半世紀ほど前に、子供の自制心と 成人後の社会的成果の関連性を調査した有名な実験だよ」 「マシュマロを何個食えるかで、子供の将来が わかんのかよ?」 「ある意味では、そういうこと」 星矢が想像しているマシュマロ実験と、実際のマシュマロ実験の内容は、おそらく全く違っている。 にもかかわらず、言葉の上では“そういうこと”で、星矢の推測は正鵠を射ているのだった。 「被験者は、同レベルの経済力を持つ家庭で育った、当然 教育レベルも似たり寄ったりの200人弱の4歳児だよ。椅子とテーブルしかない部屋に、子供たちを一人ずつ入れる。テーブルの上には、マシュマロが1個載った 皿がある。実験者は、子供たちに、自分は これから所用で席を外すから、戻ってくるまで ここで待ってるようにって言うんだ。お皿のマシュマロは食べてもいいけど、自分が戻ってくる15分後まで 食べずにいたら、もう1個あげるって約束する。15分間 待っていることができなかったら、2個目はなし」 「なんだ。食えるのは2個だけかよ」 その実験内容に 星矢はがっかりしたようだったが、この実験の重要ポイントは、マシュマロを2個食べることのできた子供の方が少数派だったということなのだ。 「2個どころか。15分我慢して、2個目のマシュマロをもらうことができた子供は、全体の3分の1も いなかったんだよ。で、10年後に行われた追跡調査では、マシュマロを食べるのを15分間 待つことのできた子供たちと我慢できなかった子供たちの間では、米国の大学進学適性試験の点数に、トータルスコアで平均210ポイントの差があった。もちろん、我慢できた子供たちの方が成績がよかった。更に、20年後に行われた追跡調査では、マシュマロを食べるのを15分間 待つことのできた子供たちは、社会的に成功したり 幸福な家庭を営んでいたりしたんだけど、我慢できなかった子供たちは、その大部分が、成功や幸福とは縁遠い状況下にあった。そういう実験だよ」 「マシュマロが1個か2個かで、そこまで――」 そこまで、人生の予測がつくのだ。 恐れ入ったような溜め息を洩らす星矢を見やりつつ、総括に入ったのは紫龍だった。 「つまり、両親の経済力や教育のレベルより、IQより、セルフコントロールができるかどうかの方が、人間の人生の成否や幸不幸を左右するということだ。15分どころか、年単位で我慢できるナターシャは、きっと立派な大人になるぞ」 この場にいる大人たちは、全員が2個目のマシュマロを手に入れることのできる人間である。 全員が、幼い頃から 我慢を覚えなければ生き延びることのできない境遇にあった。 その力があったから、聖闘士になることができた――と言うこともできる。 しかし、ナターシャは、我慢を強いられる境遇にあるわけではないのに、『我慢する』と言う。 紫龍は――星矢も――当然のごとくに、それは瞬の躾のたまものだろうと考えていたが、彼等は その考えを言葉にはしなかった。 紫龍が この場に そんな話題を持ち出したのは、瞬を褒めるためではなく、(一応)呆然自失状態で海底深くに沈んでいる氷河を海上に引き上げるためだったのだ。 が、紫龍の その目的は果たされなかった。 それどころか。 紫龍が褒めたつもりだったナターシャが、氷河に引きずられたわけではないだろうに、ひどく暗い顔になってしまったのである。 暗く沈んだ様子で、ナターシャは、 「ナターシャは、リッパなオトナにならなくてイイヨ……」 と呟くように言った。 ナターシャのその言葉に、その場にいた大人たちは――呆然自失状態だった氷河も含めて――ぎょっとしてしまったのである。 ナターシャは、マーマの言うことを よく聞く いい子。 ナターシャがいい子でいれば パパが喜び、パパが喜べば ナターシャも嬉しい。 現状では、それがナターシャの人生の指針だと、彼等は思っていたから。 そして、“いい子”は、とんでもないアクシデントに見舞われない限り、“立派な大人”になるものだろうとも 思っていた。 しかし、ナターシャの望みは そうではない――らしい。 「パパとマーマは、世界の平和を守るために命がけで戦っているんデショウ? ナターシャは、サンタさんのプレゼントをためておいて、パパとマーマが ぴんちになった時、サンタさんに助けてもらう」 「ナターシャ……」 のんきに 呆然自失状態でいられなくなった氷河が、ナターシャの健気な言葉に感激して、愛娘の名を呼ぶ。 しかし、ナターシャの健気なプレゼントに感激すると同時に、氷河には、それがナターシャの中で“リッパなオトナ”に結びつかない訳が わからなかったのである。 「ナターシャが いちばん欲しいのは、パパとマーマだから」 ナターシャの考えが わからないのは、氷河だけではなかった。 「ナターシャの歳で、そんなふうに考えられるのは、十分に立派なことだぞ。普通は、玩具や おやつや――自分の欲しいものを望む。大人だって、何か願い事を言えと言われれば、大抵は 金持ちになりたいだの、長生きしたいだの、偉くなりたいだのと、自分のことを願う」 わからないながらも、紫龍が、それは立派なことなのだと言ってやったのだが、ナターシャは首を横に振った。 「世界には、パパとマーマがいない子が いっぱいいるんデショ。マーマが言ってた。マーマは そんな子供たちを守って、幸せにしたくて、戦い続けてるんだッテ」 「そ……それが、どうして――」 それが どうして、ナターシャが立派でないことにつながるのか。 瞬は、急に 自分が 失語症か失認症になって 言葉が理解できなくなったような感覚に襲われてしまったのである。 ナターシャの考えが わからない――瞬は、軽い混乱に陥っていた。 「マーマはリッパだけど、ナターシャはマーマみたいにリッパじゃないの。ナターシャは、ナターシャのパパとマーマにいてほしいの」 「僕と氷河は、いつだってナターシャちゃんの側にいるよ」 ナターシャは、パパとマーマがいなくなる事態を恐れている。 もう忘れたものとばかり思っていたのに、ナターシャは 一人で夜の街に取り残されていた時のことを、まだ記憶しているようだった。 そして、あの時の悲しさと心細さを 再び経験したくなくて、パパとマーマに自分の側にいてほしいと願っている。 それがナターシャの望み――ナターシャだけの望みなのだ。 少しずつ、瞬には、ナターシャの消沈の訳が わかってきた。 「サンタさんだって、世界中の子供のために プレゼントを配ってあげてるんでショ。なのに、ナターシャは――」 つまり、そういうこと。 ナターシャは、自分を、自分のことしか考えてない悪い子だと思ってるのだ。 そんな自分の心を変えられないことを、悪いことだと思っている。 「ナターシャちゃん」 瞬は、ナターシャの素直な罪悪感、素直な善良さが嬉しくて、胸が詰まったのである。 ナターシャが悪い子であるはずがない。 本当に悪い子は、自分のことしか考えていない自分を悪い子だと思うことすらしないだろう。 瞬は、膝の上のナターシャの身体の向きを変え、横向きに座らせて、彼女の顔を覗き込み、その視線を捉えた。 「僕が頑張れるのは、ナターシャちゃんがいてくれるからだよ。氷河だって、ナターシャちゃんのために、頑張ってるんだ。サンタさんが頑張れるのだって、世界中の子供たちがいてくれるから。人は みんな、そんなふうに誰かから力をもらってるんだよ」 「ナターシャ、何もしてナイヨ」 「ナターシャちゃんが とっても いい子で、とっても可愛いから、氷河は頑張れるの。ナターシャちゃんは まだ小さいから、それでいいんだよ。小さな子供は、そんなふうに大人に力をあげるのが お仕事だから。そうして、元気に大きくなって、大人になった時、自分より小さな子供や 弱い人を助けてあげられるようになればいい。それが、立派な大人になるってことなんだよ」 「ナターシャ、リッパなオトナになれる?」 「もちろん。ナターシャちゃんは いつだって、氷河の ご自慢のナターシャちゃんだよ」 『パパ、ほんと?』と言葉にはせずに、まだ少し心配そうな目で、ナターシャが氷河の顔を見上げる。 頷く氷河は、いつも通り、仏頂面に近い無表情なのだが、ナターシャには それが いつもの倍も優しく、いつもの倍も嬉しそうな顔だということが わかるのだ。 「ヨカッター!」 平生の、高く大きな子供らしい声に戻って、ナターシャが歓声をあげる。 それまでの緊張が解けたらしく、瞬の腕の中で、ナターシャの身体は 瞬時に その柔軟を取り戻した。 「ナターシャの目標はマーマなんダヨ。パパはマーマが大好きだカラ」 「お。大きく出たな」 「それは また」 ナターシャは立派な大人になるだろうが、同時に 危険な大人にもなってしまうかもしれない。 ファザコンとマザコンを併発しているらしい“いい子”のナターシャに、星矢は面白そうに 瞳を輝かせ、紫龍は 先を案じる顔で 深く長く嘆息した。 |