いずれにしても、ナターシャは冥界――ハーデスの力の及ぶ場所にいると考えるのが妥当である。
だとすれば、ナターシャを愛し、彼女を守りたい者たちが すべきことは決まっていた。
「僕が連れ戻しに行くよ」
瞬が そう言ったのは至極 自然なことで、
「何を言っている。おまえは――」
その瞬を、氷河が引き止めようとするのもまた当然のことだったろう。
無論、瞬は、大人しく 氷河に引き止められることはしなかったが。

「僕は ハーデスの依り代だった。それは忘れていないよ。でも、それは怪我の功名だったね。かえって幸いだった。聖戦でハーデスは彼の本来の肉体を失った。ハーデスは僕が欲しいはずだ。僕を冥界に迎え入れることに躊躇はないはず。少なくとも、邪魔はしない」
「目的が、ナターシャではなく、おまえだったらどうするんだ。ナターシャが、おまえを冥界に引き寄せるための囮で、本当の目的がおまえだったら。ハーデスは、おまえを手に入れるために ナターシャをさらい、おまえに抵抗させないために、ナターシャを人質として利用しようとしているのかもしれない。だとしたら、おまえが冥界に行くことは、自分からハーデスの罠に飛び込んでいくようなものだ。そんなことをさせられるか!」
「それでも、行かなくちゃならないでしょう?」

それは氷河もわかっているはずである。
バルゴの瞬は、ナターシャのマーマなのだ。
ナターシャを守ることは、ナターシャのマーマの務め。
わかっているくせに、
「駄目だ! 俺が行く」
わかっているはずの氷河は、食い下がってきた。
子供のように駄々をこねる氷河に、仕方がないので、瞬は尋ねたのである。
「どうやって?」
と。
「……」
瞬に問われると、氷河は沈黙した。
氷河は、そこに行く術を持っていないのだから、彼の沈黙は当然のものだったろう。

「僕なら、ハーデスを呼べば、向こうから来てくれると思うけど、氷河は――」
「俺が呼んでも来ないだろうな……」
忌々しげに、氷河が舌打ちをする。
なにしろ氷河は、死にかけたことは幾度もあったが、本当に死んだことは一度もない、正真正銘の生者なのだ。
死んだことがないないのは 瞬も同じだが、今のハーデスにとって 瞬は、手に入れられるなら自ら迎えに出向くことも厭わないほど 極めて有益な人間。
対して、氷河は、ハーデスにとって、ただただ邪魔な人間。
ハーデスは、氷河が冥界に入ることを拒むだろう――拒むだけでなく、阻むだろう
『入れてください』と頼んだところで、入れてもらえるはずがなかった。

瞬と自分の立場の違いくらいは、氷河も承知していた。
とはいえ、諦めが悪いのがアテナの聖闘士の身上。
それくらいのことでは、氷河は引き下がらなかった。
「デスマスクがいる。奴に、俺を冥界に運ばせる。おまえが冥界に行くのは危険この上ないが、冥界に行くのが俺なら、少なくともハーデスは、俺の身体を利用しようなどということは考えまい。俺は、奴の好みの範疇外の男だからな」
「氷河の身に何かあったら、ナターシャちゃんを取り返すことができても、何にもならないよ」
「それは、おまえも同じだ」
「ナターシャちゃんは、パパがいてくれれば、きっと……」
「瞬っ!」

氷河が怒りで眉を吊り上げる様を見て、瞬は、自分が言い方を間違えたことに気付いたのである。
『パパさえいれば』で、氷河が説得されてくれるはずがないのだ。
氷河は、ナターシャを世界でいちばん幸せな娘にしたいと思っている。
そして、『幸福な子供の傍らにはマーマがいる』というのが、誰にも覆すことのできない氷河の絶対の信念。
ここで、『僕がいなくなったら、ナターシャちゃんに 代わりのマーマを探してあげて』と言うのは、氷河の怒りを更に激しくするだけ――火に油を注ぐようなものである。

瞬は、自分のミスに臍を噛んだが、こうなると氷河はテコでも動かない。
適切な氷河の説得方法を思いつくことができず、瞬は途方に暮れてしまったのである。






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