最初、瞬は、それが誰なのか わからなかったのである。 名指しで兄との再会を喜ぶところを見ると、兄の個人的な知り合いなのだろうと思っただけで。 兄が、 「デストール !? 」 と彼の名を呼ぶに至って、彼が 自分も知っている人物であること、彼がアテナの聖闘士であること、そして、彼が二百数十年も前に生き、死んだ人間であることに気付く――思い出す。 彼は、先の蟹座の黄金聖闘士。 キャンサーのデストール、その人だった。 「いい男になったじゃないの! 初めて会った時は、ただの老けた子供だったけど、ただ者じゃないとは思ってたのよ。やっぱり、アタシの男を見る目は確かだったわ!」 なぜ 彼が ここにいるのか。 ――という疑念が 瞬の中に生まれたが、その疑念は 答えに辿り着く前に消え去った。 ここは光 あふれる地上世界ではなく、黄泉比良坂――冥界に属する場所。 二百数十年前に その命を生き終えた人間が ここにいることは、驚くべきことでも、不思議に思うようなことでもない。 まして 彼は、現世と冥界を行き来する能力を有する蟹座の黄金聖闘士。 むしろ、この場に 生者である自分がいる現実の方が はるかに不自然なことなのだ。 あえてデストールに疑念を抱くとしたら、それは、彼が自分の兄に妙に親しげ――馴れ馴れしいと言っていいほど親しげなことと その理由についてだったのだが、瞬の そんな疑念は、 「パパ! マーマ!」 というナターシャの声で、エリシオンの彼方にまで吹き飛んでいってしまったのである。 ナターシャが、デストールの陰から 弾けるように勢いよく飛び出てきた。 元気よく、明るく、そして、どうやら、ナターシャは怪我の一つもしていないようだった。 「ナターシャちゃん、どうして……。ハーデスに誘拐されたじゃなかったのっ」 「ナターシャ、ユーカイされてないヨー」 「誘拐されてない?」 「ウン。メイカイイチビケイのデストールサマが美味しい桃をくれるっていうから、ナターシャ、ついていっただけだヨー」 ナターシャは、自分が誘拐されていないことに自信満々。 だが、一般的には それを誘拐と言う。 「ナターシャちゃん! 知らない人に お菓子をあげるって言われても、ついていっちゃだめだよって、いつも 言ってたでしょう」 「お菓子じゃナイヨ。桃ダヨ。ナターシャ、桃が欲しかったんダヨ」 「ナターシャちゃん……」 確かに 瞬は これまでただの一度も、『桃をあげると言われても、ついていっちゃだめだよ』と ナターシャに言ったことはなかった。 確かに ナターシャはマーマの言いつけに背いてはいないのかもしれなかった。 しかし、これは、だから大目に見ていいことではない。 ナターシャの無事を喜びたい気持ちを無理に抑えて、瞬は ナターシャを叱らなければならなかった。 実際、瞬は ナターシャを叱ろうとしたのである。 叱ろうとしたのだが。 「ナターシャちゃん、お菓子でも桃でも、知らない人に ついていっちゃだめ――」 「ナターシャ、メイカイイチビケイのデストールサマが、パパやマーマと同じ正義の味方だって わかったんダヨ。だから、ついていっても大丈夫なんダヨ!」 パパとマーマと同じ正義の味方だから、デストールは知らない人ではないし、ついていっても大丈夫――というのが、ナターシャの判断にして主張であるらしい。 「ガキで、しかも女なのに、男を見る目があるわあ」 メイカイイチビケイのデストールサマまでが、ナターシャの その主張に便乗して、自身は無罪だと言い張るつもりのようだった。 ナターシャに男を見る目――というより、正邪を見極める目があるのは事実なのだろう。 瞬は、そう思った――思わざるを得なかった。 だが、おそらく ナターシャは、『メイカイイチビケイ』の意味は わかっていない。 それをデストールの苗字と思っているか、あるいは、デストールを とても長い名前の人だと思っているだけである。 その事実を あえて指摘することに益があるとも思えず、そうする代わりに、瞬は 細く長い息を洩らした。 ナターシャが、そんなマーマと手をつないで、パパの方に向き直る。 「パパが、桃が手に入ったら、フローチョージュのお酒が作れるって言ってたカラ。ナターシャ、メイカイイチビケイのデストールサマから桃をもらって、パパにあげようと思ったンダヨ」 「俺に桃……?」 「ウン。それで、パパがフローチョージュのお酒を作って マーマに飲ませてあげたら、マーマが 今よりもっと若くて元気で綺麗で長生きになるデショ。そしたら、パパが嬉しいデショ。パパが嬉しいと、ナターシャも嬉しいカラ」 不老長寿の象徴である桃。 その桃を使って作る、ピンク色の甘いカクテル。 それが、ナターシャがメイカイイチビケイのデストールサマに誘拐されることになった直接の原因だったらしい。 ナターシャのしたことは、もちろん叱られなければならないことである。 今回は最悪の自体にはならなかったが、これからも そうだとは限らない。 誰よりもナターシャ自身のために、メイカイイチビケイのデストールサマについていったナターシャは パパとマーマに叱られなければならないし、ナターシャのパパとマーマは ナターシャを叱らなければならない。 それはナターシャのパパとマーマの義務。子供の両親の義務である。 しかし。 『パパが嬉しいと、ナターシャも嬉しいカラ』 その一言で、氷河は さっさと父の義務を放棄してしまったのである。 「ナターシャの気持ちは嬉しいが、瞬は 今のままで 十分に綺麗だから」 そういうのが、氷河には精一杯だった。 「あらあ。まだまだよお。瞬なんて、アタシの足元にも及ばないわ」 「……」 ナターシャは叱りたくないが、メイカイイチビケイのデストールサマは殴り飛ばしたい。 氷河が その拳を握りしめ 小宇宙を燃やし始めていることに気付いた紫龍は、この場に地獄絵を描く事態を避けるために、慌てて 二人の正義の味方の仲裁に入ることになった。 「ナターシャ。冥界の桃で作った酒を飲むと、瞬が そこのおじさんのようになってしまうぞ。それでもいいのか」 「エ……」 紫龍に そう言われたナターシャが、メイカイイチビケイのデストールサマの顔を見上げる。 それから、ナターシャは、マーマとつないでいた手に ぎゅっと力を込めた。 「ナターシャ、マーマは今のままがいい」 「うむ。賢明な判断だ」 と紫龍が頷くのと、 「それって、どういう意味よ!」 デストールが怒りの声を上げるのが、ほぼ同時。 ナターシャは、自分の正直な気持ちを 正直に口にしただけで、悪いことを言ったつもりも失礼なことを言ったつもりも なかっただろうが、(おそらく本能的に)マーマの後ろに避難した。 「ナターシャが、メイカイイチビケイのデストールサマについていった訳はわかった。では、デストールはなぜ ナターシャを誘拐しようとしたんだ」 ナターシャの避難が完了したことを確かめた紫龍が、事実確認作業を開始したのは――。 瞬は、ナターシャが無事でさえあれば、誘拐犯を責めるつもりはないだろうと思うから。 そんな瞬とは逆に、パパとマーマを思う娘の優しい心を利用して誘拐などという悪事を行なった上、瞬を侮辱までしてくれた傲慢な極悪人を 殴り倒したがっている氷河の気持ちを 落ち着かせなければならないと思うから。 仮にも自分の師匠を責めるわけにはいかないだろうデスマスクの立場を思うから。 一輝と星矢は、調停役にも仲裁役にも向いていないことを承知しているから。 ――等々の事情による。 紫龍のそういう性分を知ってか知らずか(もちろん知らない)、デストールの返答は ひどく浮かれたものだった。 「ああ、それは――。こないだ、カプリコーンとジェミニの黄金聖闘士が冥界落ちしそうになってたところに 不肖の弟子がやってきて、アタシを顎で使ってくれたじゃない。デスマスクに会ったら、一輝が懐かしくってェ。それで、一輝を冥界に呼ぼうと思ったのね。でも、一輝は『来い』って言ったって、素直に来る男じゃないでしょ。一輝を動かそうと思ったら、弟を窮地に陥らせればいい。でも、一輝の弟は――今は、アンドロメダじゃなくバルゴなんだっけ? やたらと強くなってて、ピンチになんて、簡単に陥ってくれそうにない。今のバルゴのいちばんの弱みは 小さな娘みたいだったから」 「つまり、ナターシャで瞬を釣って、瞬で一輝を釣り上げるつもりだったのか。ハーデスより質が悪いな」 「まあ。失礼ね。メイカイイチビケイのデストールサマは、冥界一 美形なだけでなく、冥界一 賢いって言ってちょうだい。見事、目的達成。一輝、懐かしいわあ!」 「ふざけるなーっ !! 」 デストールの自画自賛にかぶせるように、一輝と氷河が、全く同じタイミングで、全く同じセリフを黄泉比良坂周辺に響き渡らせる。 デストールも一輝も氷河も、この場を穏便に治めるべく腐心している天秤座の黄金聖闘士の努力に感謝するつもりは全くないらしい。 感謝するどころか、そもそも彼等には 紫龍の努力と気遣いに気付いている気配すら見られなかった。 「いつかは冥界に来ると思って待ってたんだけど、アンタ、なかなか死にそうにないし。アンタが死ぬのを待ってたら、冥界も世界も終わっちゃう。これはもう、何かエサを使って呼び寄せるしかないと思ったわけよ」 「師匠さんよ。アンタが この男に会うために、こんな騒ぎを起こしたことはわかった。で、用は何なんだ。こんな手の込んだことまでして、こいつを冥界に呼びつけた訳は!」 デスマスクが 紫龍の仕事を引き継いだのは、その努力と気遣いに感謝しないどころか、その努力と気遣いに気付きもせずに非協力的な態度を見せているアテナの聖闘士たちに、天秤座の黄金聖闘士が虚しさを覚え始めていることに、彼が気付いたからだったろう。 一輝や氷河、デストールに比べれば はるかに、デスマスクは気配りができる男だったのだ。 デストールは、弟子の気配りなど 鼻で笑ってのける男だったのだが。 「用なんかないわ。至近距離で 一輝の顔を見たかっただけよ。満足したわ」 「それだけ?」 「それだけ」 「……」 これを、天衣無縫、天真爛漫と表していいものか。 むしろ、他人(=生者)の都合を考えない 勝手気ままの自己中心主義。 しかも 当人は死の国に属する人間だというのに、師匠の あまりの やりたい放題には、自称“相当邪悪”なデクマスクでさえ、絶句することになったのだった。 デストールを責めても無駄と悟った氷河が、デストールではなく一輝に、露骨に嫌そうな顔を向ける。 「相変わらず、特殊な性癖の男に好かれる病気が治っていないようだな。そんなことに瞬とナターシャを巻き込むなっ!」 「俺のせいだというのか!」 「貴様のせいでなかったら、誰のせいだというんだ! 瞬やナターシャのせいだとでも言うつもりか、貴様!」 氷河が一輝を目の敵にし、彼との間に いさかいばかり起こしているのは、一輝が自分と同じ世界に住み、似たような価値観を持っているから。 つまり、氷河が一輝を理解しているから――理解できているからだったろう。 あらゆる意味で 異世界の住人であるデストールのような男とは、そもそも喧嘩すら成り立たないのだ。 「何かもう、生も死も、過去も未来も、正義も邪悪も、ぐちゃぐちゃ のごちゃごちゃだね……」 瞬が紫龍に 慰撫の言葉を投げるのも、同じ理由。 住む世界が同じで、価値観が似ており、おそらく その立ち位置も似ているから――だったろう。 今、世界は 混沌としている。 秩序を重んじる人間には、今は生きにくい世の中なのだ。 |