午前中に1回。
昼過ぎに1回。
その後、更に もう1回。
その日、氷河が教皇宮のファサードで、瞬が教皇の間から出てくるのを いらいらしながら待っていたのは、考えようによっては、彼に理性と分別があったからだったかもしれない。
その理性と分別も いつまで続くか わからないので、氷河の隣りには紫龍が待機。
瞬が仲間たちの前に姿を現わしたのは、瞬がカノンに本日3度目の呼び出しを受けて教皇の間に入ってから1時間弱の時間が経過してからだった。

「氷河、紫龍。こんなところで どうしたの? 何かあったの?」
『こんなところでどうしたの?』は、氷河こそが瞬に訊きたいことだった。
仲間の姿を認めた瞬が、足を速めて 氷河と紫龍の許に駆け寄ってくる。

青銅聖衣に比べると機動性に優れているとは言い難いせいもあり、元青銅聖闘士たちは聖域にいる時にも滅多に黄金聖衣を その身にまとうことはなかった。
黄金聖闘士に任命された者が 人目のあるところで青銅聖衣を まとうわけにもいかないので、基本的に着衣は平服。
聖衣をまとっていない瞬は、見事に 華奢で可愛い子供だった。
男子に見えないどころか、成人にも見えない。
この特異な容貌の仲間と対峙するたび、紫龍は 不可思議な錯覚に囚われた。
アテナにも その傾向があったが、瞬は、時を重ねることで 大人になる代わりに 人間離れしていくように見えてならないのだ。

とはいえ、瞬は、その瞳を覗き込みさえしなければ、ただの綺麗な人間だった。
造作だけなら、瞬より美しい人間は、多くはないにしろ いくらでもいる。
氷河が異様に瞬に固執するのは、氷河が あまりに近くで、あまりに幾度も、瞬の瞳を覗き込みすぎたせいなのだと、紫龍は思っていた。

その氷河が、瞬の瞳を見ずに――『こんにちは』どころか どんな前振りもなく 唐突に、
「こんなに頻繁にカノンのところに行って、おまえは いったい奴と何をしているんだ」
不機嫌を音にしたような声で、瞬を問い質す。
「聖域の今後について話し合ってるんだよ」
瞬の答えは簡潔明瞭。
瞬は むしろ、氷河の声が ほとんど怒声に聞こえるほどに不機嫌なことを訝っているようだった。
「なら、俺たちも呼べばいいだろう。おまえとカノンで意見が合うとも思えん」
「ほんとだね。意見が対立してばかりいるよ。聖域の端の小さな砦の人員配置ひとつにしても、カノンは攻撃を主眼に置きたがるし、僕は防衛を第一に考えたがる」

氷河の不機嫌に慣れている瞬は――氷河は上機嫌でいることの方が珍しいのだ――氷河の不機嫌な声や顔に動じた様子もなく、笑顔で答えてきた。
氷河の不機嫌を和らげようとしての笑顔だったろうが、今ばかりは、それは逆効果。
更に むっとした氷河に、瞬は首をかしげた。
「氷河……?」
不機嫌の訳を話したくない氷河は無言。
氷河が無言なので、瞬も何も言えない。
結局、紫龍が 二人の執り成し作業に取りかからざるを得なくなった。

「氷河は、おまえへのカノンの寵遇が過ぎるのではないかと案じているんだ」
「寵遇……? 寵遇って何」
瞬が ぷっと吹き出したのは、普通に考えれば、瞬が 自分に与えられている状況を“寵遇”だと思っていない――ということなのだろう。
事実もそうなのかどうかは、カノンならぬ身の紫龍には わからなかったが、瞬の主観を考慮に入れず 傍から見る分には、それは立派に 寵遇――権力者が特定の個人に特別に目をかけている状態。
事実は どうあれ、瞬に その自覚がないことは、考えようによっては極めて危険なことだった。

「笑いごとではないぞ。聖域で 何らかの不都合があると、皆がおまえのところに陳情に行く。おまえに頼めば、教皇に働きかけて どうにかしてもらえると、皆は思っているんだ。無論、おまえは公明正大な人間だ。判断を誤ることは まず無いだろうと、俺たちは思う。だが、おまえの人となりをよく知らない者たちは、教皇への おまえの影響力に不安を覚えるんだ。おまえを聖域の傾城傾国と噂している者もいる。それでなくても、黄金聖闘士の力と影響力は強大。その上、カノンは元反逆者で、おまえは――」
紫龍が『ハーデスの依り代だった』と言葉を続けないのは、瞬自身に責任のないことで 瞬の過去のあれこれを あげつらうことはしたくないと思ったからだった。
しかし、それ以上に――こうして 聖域の現況を言葉にしてみると、確かにそれは“笑いごとではない”状況だということに、改めて――むしろ 初めて――気付いてしまったせいでもあった。

「うん……」
瞬が瞼を伏せ 吐息したのは、紫龍が言葉を途切らせたことを 彼の気遣いだと思い、仲間に そんなふうに気を遣わせる自分を――ハーデスに つけ入られた、かつての自分を――苦しく感じたからだったろう。
仲間に そんな気遣いをさせること自体を申し訳ないと思う気持ちもあったに違いない。

「面倒だね。青銅聖闘士でいた頃は、いろんなことが単純でよかった。僕たちは、平和や正義、守りたいものや信じるもののために、ただ戦っていればよかった」
自分のことしか考えていない氷河と、自分以外の人間のことしか考えない瞬が、同じ嘆きを口にする。
つらい戦いばかりの日々だったというのに、乙女座の黄金聖闘士と水瓶座の黄金聖闘士にとっては――もしかしたら 天秤座の黄金聖闘士にとっても――自分たちが青銅聖闘士でいられた時こそが最も幸福で、迷いがなく、充実した日々だったのかもしれないと、紫龍は思ったのである。

「カノンは、聖域の 様々なことの決裁過程の可視化を望んでいるようなんだけど……。そうはいっても、外部に洩れると困る情報は秘匿しなきゃならないし、無益な動揺を招かないために、公にしないでおいた方がいいようなこともあるでしょう? 秘密主義が行き過ぎて、みんなに疑いを抱かせるようなことはしたくないし、だからといって 何もかもを明け透けにして、みんなを不安にするわけにもいかない。その辺りの加減は 本当に難しいね……」
瞬が憂い顔で、真剣に、聖域のあり方を論じ始めるのに、紫龍は 少しく慌ててしまったのである。
もちろん、瞬が苦慮していることは重要な問題である。
だが、紫龍が今 最も早急な対策の必要を感じている問題は、“傍目には 行き過ぎた寵遇に見える状況の解消”ではなく、“氷河がカノンへの怒りを爆発させて 聖域を氷河期に突入させる事態を回避すること”だったのだ。

氷河が聞き耳を立てているのを承知の上で――氷河と瞬には聞き取れるが、他聞をはばかる音量で――現在の聖域が最優先で解決しなければならない問題の本質を、紫龍は瞬に告げたのである。
つまり、氷河が言いたくても言えないでいることを代弁してやった。
「氷河の不機嫌の理由は、ただの焼きもちだ」
と。
自分が置かれている状況を寵遇と思っていない瞬には、それは思いがけない言葉だったのだろう。
瞬は一瞬、虚を衝かれた顔になり、訳がわかっていない声音で、紫龍に問い返してきた。

「焼きもちって、誰に」
「カノンだろうな」
「馬鹿馬鹿しい」
『本当に馬鹿馬鹿しい』と、紫龍とて思う。
だが、人間の営む社会というものは、しばしば“本当に馬鹿馬鹿しい”ことで 混迷し、混乱し、場合によっては崩壊に至ることさえあるのだ。

「氷河は、とにかく、自分とおまえの間に割って入ってくる者が気に入らないんだ」
「そんな人は どこにもいないよ」
『そんな人はどこにもいない』と瞬は言う。
だが、“そんな人”が実際にいるかいないかは、実は 大した問題ではない。
問題は、“そんな人”がいると、氷河が思っていることなのだ。

「今のままだと、氷河は、カノンへの不信が募って 教皇へのクーデターも企みかねない。人知れず教皇を倒して、自分が教皇になり代わり、自分に都合のいい聖域を作ろうと企むくらいのことを、氷河は平気でするぞ。悪いのは、自分と おまえの間に割り込んでくるカノンの方だと、氷河は思ってるんだからな」
「そんなことで、まさか――」
そんなことで 氷河が“サガの乱”を再現するわけがないと、瞬は思いたいようだったが、それこそ甘い考えというものである。
氷河には、権力欲も支配欲もない。
だからこそ 氷河は、自分こそが正義だと、容易に信じることもできてしまうのだ。
正義を実行するために、氷河は 一瞬たりとも躊躇することなく驀進するだろう。
そんな馬鹿馬鹿しい戦いを聖域に引き起こさないために、ここは瞬に 一働きしてもらわなければならなかった。

「まさかの事態を避けるためにも、たまには聖域を出て、カノンの呼び出しがあっても応じられないところで、氷河の機嫌取りをしてみるというのはどうだ? 災厄の芽を 芽のうちに摘み取るのも、聖域と地上世界の平和を守ることに繋がる大事な仕事だ。黄金聖闘士の仕事としては かなり情けないが、これは おまえにしかできない仕事でもある」
バカンスひとつで“氷河の乱”を回避できるなら、安いものである。
いかに低レベルであっても、決して ないがしろにしてはならない重要な問題というものは、社会に多く存在する。

身分制度によって人間が不平等な社会にあっても、飢えていなかったらフランスの民はフランス革命を起こさなかっただろう。
社会の大きな変革の原動力は常に、理想や正義や愛ではなく 大衆の不満。
多くの人間の不満や不平は、理想や正義に勝る強大な力を有しているのだ。
氷河の不満が聖域をひっくり返すような騒乱を引き起こさないとは、誰にも言い切れない。
だから――紫龍は いたって真面目に、極めて真剣に、瞬を説得したのである。

紫龍に真顔で説かれ、瞬も少しずつ、氷河の不満を解消するバカンスの重要性と必要性を認識するようになってくれたらしい。
なにしろ 付き合いが長いので、氷河の無茶振り、無鉄砲振りを、瞬は知りすぎるほどに知っている。
氷河は ある日突然、悪意なく、とんでもない方向に暴走を始める男なのだ。
「そうだね……」
紫龍と瞬のやりとりに聞き耳を立てていた氷河の小宇宙が、瞬のその小さな呟きを聞くや、浮かれ はしゃぎ出す。
いかに情けなくても、それは 地上世界の平和のため、聖域の秩序を守るため、絶対に為されなければならない仕事なのだ。
怒りを消し去った水瓶座の黄金聖闘士の小宇宙に触れて、紫龍は、これで聖域も しばらくは小康を保つことができそうだと、ほっと安堵の息を洩らしたのである。

実際、聖域は、聖戦終結後の平穏を維持できていただろう。
つい先ほど 瞬が退出してきた教皇の間から、教皇の使いが駆けてきて、
「バルゴの瞬。教皇の間に お戻りください。教皇が お召しです」
と、間が悪すぎる教皇からの招請を伝えてこなかったなら。
双魚宮のバラを心配せずにいられないほど劇的に、聖域の気温が低下した。



「時間がかかるかもしれないから、宝瓶宮で待ってて。用が済んだら、すぐ行くから」
氷河とのバカンス計画より 教皇の呼び出しを優先させるのは、聖域の聖闘士としては 当然の対応だったろう。
だが、“当然”も“必然”も“常識”も“礼儀”も、“不満”が生む怒りの前には無力で無効で無意味。
教皇の間に逆戻りする瞬を、氷河が引き止めなかったのは、このタイミングでの教皇の呼び出しに対する怒りが大きすぎて、氷河の脳が暫時 完全に麻痺してしまったからのようだった。

かなりの時間をかけて、脳梗塞状態から脱した氷河は、もはや憤怒の塊り。
「今日4度目の呼び出しだぞ! いかに俺が寛大な男でも、もはや我慢ならんっ !! 」
「おい、氷河……!」
凍気が 灼熱の炎のように燃え上がるという異常事態が、天秤座の黄金聖闘士の動きを封じる。
低次元であるにも かかわらず――低次元だからこそ?――強大すぎる氷河の力に圧倒され、紫龍は、瞬のあとを追って教皇宮に飛び込んでいく氷河を引き止めることができなかった。






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