「これが、君とキグナス――氷河の娘か。ふん。まあまあだな」 魚座の黄金聖闘士アフロディーテが 現乙女座の黄金聖闘士であるところの瞬に告げた その一言で、彼のBグループ入りは決定した。 ちなみに、Bグループというのは、現水瓶座の黄金聖闘士であるところの氷河の人間分類における1集団の名称であり、正式グループ名は“好ましくない人間”という。 氷河は 人間の好みがうるさい。 すべての人間に対して、その分類を 極めて厳格に行なう。 それは、人付き合いの苦手な氷河が、対人関係を可能な限り円滑に保つために採用している方策であり、彼は そのグルーピングを 彼が社会生活を営む上での最重要ツールとして活用していた。 ちなみに、分類の内訳は、 Aグループ“好ましい人間”が 5パーセント弱 Bグループ“好ましくない人間”が5パーセント強 Cグループ“どちらでもない人間”が90パーセント と なっている。 Aグループに 絶対者として君臨しているのが、瞬とナターシャ。 Bグループで 不動の1位をキープしているのが、瞬の兄。 ちなみに、Bグループ“好ましくない人間”の“好ましくない”は、“嫌いな”という意味ではない。 ほぼ同じだが、全く同じではない。 また、Cグループ“どちらでもない人間”の“どちらでもない”は、“どうでもいい”と言い換えることができた。 氷河は、Cグループの人間とは“人として付き合わない( = 人付き合いが うまくできなくても気にしない)”ことにしているようだった。 氷河の中で いったん そのグルーピングが為されると、グループ間でのメンバー移動は滅多に行われない。 ごく稀に行われる移動の際のキーワードは、『なんて可愛らしい お嬢さんでしょう!』『ナターシャちゃんは、本当に お利口さんですね!』に類する言葉。 ナターシャを褒めると、一度はBグループやCグループに分類された人間がAグループ移動することが時折あった。 ともかく、アフロディーテが 初めて氷河と瞬の住まいを訪問した際、二人の愛娘を一瞥して発した『まあまあだな』の一言が、アフロディーテのBグループ入りを決定したのである。 社交辞令でも『可愛らしい子だ』くらいのことを言っておけば、アフロディーテもAグループの末席に連なることができ、氷河の家 及び 氷河の店での彼の待遇は、かなり 良いものになっていただろう。 不運にして 氷河の分類ルールを知らなかったアフロディーテは、『まあまあだな』の一言によって、問答無用でBグループの中に放り込まれてしまったのである。 とはいえ、アフロディーテは 特段 氷河に好かれたいと望んではいなかったろう。 自分が万人受けするキャラクターではなく、好悪の評価が分かれるタイプの人間だということも、アフロディーテ自身は自覚できていたはず。 彼は、“アンチが多いのは、それだけ 自分に存在感があるから”だと解し、氷河に限らず、他人の評価など どうでもいいとい考えるタイプの男だった。 瞬は、そう察していた。 だから、アフロディーテにとって問題だったのは、氷河の評価ではない。 そうではなく――彼にとっての大問題は おそらく、氷河の娘の、 「ナターシャです! はじめまして、こんにちは! おじちゃんは、シュラのオトモダチー !? 」 という自己紹介と初対面の挨拶の方だった。 「おおおおおおおおじちゃんっ !? 」 生まれて この方、誰にも使われたことのない その呼称を、アフロディーテが 大胆な誇張の手法を用いて、大声で復唱する。 その大声に びっくりして、ナターシャは 一瞬 瞳を大きく見開いた。 頭の回転が速く、しかも 勘のいいナターシャは、アフロディーテの雄叫びに非難と疑問の響きが混じっていることを すぐに感じ取ったのだろう。 彼女は、自らの犯した過ちの内容について 考えを巡らし、ほとんど間を置かずに、ミスの修復作業に取り掛かった。 「おばちゃんなの……?」 「…… !!!! 」 アフロディーテは、ナターシャの極めて迅速なトラブル対応に感心できるほど、人間ができていなかった。 というより、『おじちゃん』『おばちゃん』の衝撃が大きすぎて、アフロディーテの脳の全細胞は数秒間、完全に その活動を止めてしまっていたのだ。 ショック状態の数秒間が過ぎたあと、アフロディーテが、ナターシャではなく瞬を叱咤し始めたのは、幼い子供の無分別な言葉によって 己れの健全な精神に更なる支障をきたすことを回避するための アフロディーテの素早い判断――むしろ、切なる願い――ゆえだったろう。 その判断は 適切なものだった。 そして、その願いは、彼の生命維持のためには どうしても必要なものだった。 叱責の内容には、かなり問題があったが。 「瞬! 君は自分の娘に どういう躾をしているんだ! この私に向かって、おじちゃんだの おばちゃんだの! まず“綺麗な お姉さん”と見誤ってから、自分の誤認に気付き、“この世のものとも思えない綺麗な お兄さん”に認識を改める。それが、まともな美意識と常識を備えた人間が 私に出会った際の一般的な対応だろう!」 「……」 怒髪天を衝いているアフロディーテに どう答えたものか、瞬は大いに悩んでしまったのである。 ナターシャは、夜空に輝く星を見て『綺麗』と言い、野に咲く健気な花を見て『可愛い』と言う。 つまり、まともな美意識を持っている。 初めて会った人には『はじめまして』と挨拶し、お店や電車等、不特定多数の人間が大勢いるところで騒ぐこともしない。 つまり、常識も備えている。 この場合、一般的でないのは、どう考えても、アフロディーテが想定している“一般的な対応”もしくは彼の存在の方だった。 「ナターシャちゃんは まだ小さくて、その……大人の人はみんな、おじちゃんとおばちゃんなんです。ナターシャちゃんは、つい先日にも 公園で会った80歳を越えているような白髪の老紳士を“おじちゃん”と呼んだんですけど、その紳士は、ナターシャに そう呼ばれたことを とても喜んでくださったんですよ。70歳を超えた頃から、“おじいちゃん”としか呼ばれなくなっていたとかで―― ナターシャちゃんに“おじちゃん”と呼んでもらえたことを喜んで、可愛い お花の栞をくださいました」 「だから、私にも喜べというのかっ !! 」 80歳の老紳士と同じグループに分類されることを、22歳の青年に喜ぶことができるものだろうか。 アフロディーテの怒りは、至極 妥当。 瞬が持ち出した 例え話は 最悪なものだった。 だが、その至極妥当な怒りの表現方法がまずかったのだ。 眉を吊り上げ、声を張り上げて騒ぎ立てる初対面の、おじちゃんか おばちゃんか わからない人。 ナターシャはアフロディーテの剣幕に すっかり怯えて、瞬の側に避難してきた。 「マーマ。ナターシャ、このおじちゃん、恐いヨ」 「だから、“恐い人”じゃなく、“恐いくらい綺麗な人”だろう!」 臆面もなく そう言い切れるアフロディーテは、間違いなく 大物である。 それは間違いない。 ただ 彼は、普通の“大物”が備えている“大物らしい度量”というものに 少々 不自由していたのだ。 その点、 「マーマは綺麗だけど、おじちゃんは……」 『綺麗じゃないヨ』の言葉を 喉の奥に飲み込んだナターシャは、思い遣りの心を備えている少女だった。 ナターシャの思い遣りは、アフロディーテの怒りを更に大きなものにしただけだったが。 「この私が、美しさで 瞬に劣るというのかっ!」 繰り返される怒声に怯えたナターシャは、瞬の腕に 両手で ぎゅっとしがみつくことになった。 ナターシャは賢い子なので、“おじちゃん”が提示した例文通り『恐いくらい綺麗』と言えば、アフロディーテが機嫌を直すことは わかっているのである。 だが、ナターシャは、賢い子供であると同時に、正直な子供でもあった。 賢くて正直な子供は、心にもない嘘は言わない。 そんなことを言ってしまったら、ナターシャは、ナターシャを見て『可愛い』と言ってくれる人たちも嘘をついているのではないかと 疑わなければならなくなる。 それは、自分を不幸にすることだと、ナターシャは直感で感じ、悟り、知っているのだ。 ナターシャは 賢い子だから。 「子供に嘘や お世辞を強要するのはよろしくない。アテナの聖闘士ともあろうものが、大人げないにも ほどがある。子供は正直なものなんだ」 それまでオブザーバーとして、ナターシャとアフロディーテの体面の場の脇に控えていた紫龍が、ついに口を挟んできたのは、ナターシャの素直な心を守るため。 そして、黄金聖闘士としてのアフロディーテの立場を守るためでもあったかもしれない。 聖闘士の善悪を判断する役目を担う天秤座の黄金聖闘士として、紫龍は、アフロディーテに これ以上の醜態を さらさせるわけにはいかなかったのだ。 アテナの聖闘士は、地上の平和と 戦う術を持たない者たちを守り戦うのが務め。 アフロディーテのしていることは、聖闘士の使命に真っ向から逆らうものだった。 紫龍の仲裁(?)に、 「紫龍。おまえ、それで執り成してるつもりなのか」 星矢が呆れた顔になる。 アフロディーテの攻撃が ナターシャから逸れさえすれば――彼の攻撃が アテナの聖闘士に向く分には問題なしと考えていたので――紫龍は、星矢の指摘に動じた様子は見せなかった。 「俺も、ナターシャ同様、嘘をつけない男なのでな」 「そりゃあ、俺だって 正直者だから、アフロディーテを恐いくらい綺麗だなんて、肉まんを100個くらい もらえるってんでもないと、言ってやる気にはならないけどさぁ」 「瞬! 君は娘の躾だけでなく、仲間の躾も なっていないようだな! この分では、宿六の躾も ろくにできていないのだろう!」 狙い通り、アフロディーテの攻撃がナターシャから逸れる。 新たな攻撃目標が、瞬ではなく、最悪の執り成しをしてしまった瞬の仲間たちでもなく、氷河に向かうあたり、戦士としてのアフロディーテの勘は 極めて優れている(のかもしれなかった)。 アフロディーテの攻撃対象がナターシャでないなら、星矢も気楽でいられる。 星矢が、いきり立っているアフロディーテに、 「宿六の躾ができてないんじゃなく、躾ができてないから 宿六なんだろ。日本語が間違ってるぜ」 と言ったのは、決して アフロディーテの意見に反対するためではなかっただろう。 氷河への躾もできていないのだろう――というアフロディーテの推察には、星矢は むしろ賛成の立場に立っていたのだから。 「いや。日本語を母国語としていない人間が“宿六”という言葉を知っているのは、十分に称賛に価することなのではないか? 今時、生粋の日本人でも“宿六”などという言葉は滅多に使わないぞ」 「ヤドロクって、ナニー?」 ナターシャには、恐い おじちゃんから逃げることより、知らない言葉の意味を知ることの方が大事。 ナターシャの知識欲は 基本的に大歓迎なのだが、瞬は その質問には さすがに 少々 困った顔になった。 それは、できれば ナターシャには覚えてほしくない言葉だったのだ。 「おうちにいる ろくでなしっていう意味なんだけど……」 「ロクデナシっていうのはナニー?」 ナターシャの質問への答えを、へたに ごまかそうとすると、更に突っ込まれて泥沼に はまり込む。 これまでに幾度か そういう経験をしてきたので、瞬はナターシャに“ろくでなし”の正しい意味を教えることにした。 その上で使用を禁じる方が、ナターシャには いいのだ。 「“ろくでなし”っていうのは、あんまり 役に立たない まともでない人のことだよ。元々は“陸でなし”っていう言葉だったの。以前、氷河にシベリアの地平線の写真を見せてもらったことがあったでしょう? 陸が描く地平線は まっすぐで正しい。“陸でない”っていうことは、心が曲がっていて 正しくないっていうことなんだ。あんまりいい言葉じゃないから、ナターシャちゃんは使っちゃ駄目だよ」 瞬の注意にナターシャが頷くより先に、生粋の日本人たる星矢が、 「ろくでなしって、そういう意味だったんだー!」 と、頓狂な声を響かせる。 日本語を母国語としている星矢の奇声に、紫龍は 僅かに眉をひそめた。 「知らなかったのか?」 「俺、禄がないって意味だと思ってたよ。ヤドロクってのは、稼ぎの少ない亭主のことだと思ってた」 「ああ。よくある思い違いだな」 “落ちが着く”と書いて“落着”と読む。 これで、正直な子供と 大人げない大人の戦いは決着を見たと、紫龍は思ったのである。 星矢も瞬も そう思い、安堵の息をついた。 戦いのプロともいえるアテナの聖闘士が、甘い判断をしたものである。 第一次世界大戦のあとには 第二次世界大戦が勃発し、聖域十二宮戦のあとには 冥王ハーデス十二宮戦が起きたことは、彼等も知っていたというのに。 |