幸福主義(エウダイモニア)






人間が生きる目的は 幸福になること。
そう言ったのは、アリストテレス。
いわゆる 幸福主義、エウダイモニアというやつだ。
幸福というものが客観的かつ厳密に定義されておらず、人それぞれの幸福の存在を認めるのなら、幸福になることを人生の目的にするのは、あながち間違いではないだろう。
それは、個々人の自由だ。
だが、それで 幸福になれなかった人間を人生の敗残者と見なすのなら、それは間違った考え方なんじゃないだろうか。
人に不幸だと思われている人間の中にも 人生の勝利者はいるし、自分を不幸だと思っている人間の中にも 良い生を生きたといえる者はいるだろう。

俺は、自分を幸せになってはいけない人間なのだと思っている。
俺のために、俺のせいで 命を落とした母、師、兄弟子。
俺を愛し、俺自身も愛した人たちを ことごとく死という不幸に追いやっておいて、俺が幸福になったりなんかしたら、それは不公平というものだ。
幸運なことに(“幸運”であって、“幸福”ではない)俺は アテナの聖闘士で、地上の平和を守るために命をかけて戦うという務めがあり、俺個人の幸福を望まなくても 生きる目的が与えられている。
俺は、一個の人間としての欲を捨て、アテナの聖闘士としての義務を果たすべく生きていればいい。
実に崇高な生き方だ。
そう思うことに多少の揶揄の気分を含みつつ、俺は そう思っていた――思うことができていたんだ。

だというのに、俺は瞬に会ってしまった。
会うだけでなく、知ってしまった。
優しく、温かく、清らかで、しかも、俺が かつて愛した人たちの誰よりも(つまりは、俺のために死んだ人たちの誰よりも)色々な意味で強い人間。
俺が 人の命を犠牲にして生き永らえているのとは真逆で、人の命(その中には俺の命も含まれている)を救うことで生きている人。
おまけに造形まで美しい。
俺が瞬に憧れ、愛するようになったのは自然な成り行きだったろう。
そして。
俺は瞬に愛されたら、おそらく 幸福な人間になってしまうだろう。だから、俺は 瞬を避けなければならない。
俺が そう考えるようになったのも また、ごく自然な成り行きだった。


俺が その考えを瞬に告げたのは、気が付くと 俺の目や心が瞬に向いていて、意識して努力しなければ 逸らすことができなくなっている自分を自覚したから。
瞬の側にいると、自分の決意を忘れてしまいそうになるからだ。
そうなることを、俺は恐れた。
だから、もし俺が自分の決意を忘れて 幸福主義に走りそうになったら、その時には俺を戒めてほしいと、俺は瞬に頼んだんだ。
瞬の協力を得ていれば、不幸を望む俺の決意は維持継続され、俺は俺が決意した通りの生き方を貫くことができるだろうから。

いや、本当は――俺は ただ、俺の気持ちを瞬に知ってほしかったんだ。多分。
だが、俺は 瞬を手に入れて幸福になることはできない。
不幸でいようとする俺の気持ちと決意を知れば、瞬は そんな俺を憐れんで、他の誰のものにもならないでいてくれるんじゃないか。
俺は、そんなふうな 姑息な期待を抱いただけだった。――のかもしれない。

「俺は おまえを愛している。だが、俺は 幸福になってはいけない人間だ。俺は あまりに多くの人の不幸の上に生きている人間だから」
俺が そう告げると、瞬は、静かに澄んだ瞳で俺の顔を見上げ 見詰めてきた。
いつも やわらかく優しく温かい空気を その身にまとっている瞬の感情が 読み取れない。
瞬と対峙する俺は、その時、少しく 戸惑っていたように思う。

「僕の先生。僕のせいで聖闘士になれなかった人。僕が倒した すべての人」
「瞬?」
「僕も幸せになっちゃいけない?」
悲しげに微笑んで、瞬は俺に そう言った。






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