次に 俺の視界が開けた時、そこに明るい未来の世界は存在していなかった。
何の変哲もない――見慣れた城戸邸のラウンジ。
俺の記憶の中にあるラウンジと何一つ 食い違っているところがない――ということは、未来でも過去でもない今現在の、俺の本来の時間の城戸邸だ。

普通の太陽の光。普通の屋内照明。
闇の中ではないが、ここにあるのは、ごく普通の、ありふれた光だ。
ここで希望の姿を見ることができると、アテナは言うのか。
随分と いい加減な――いや、手抜きな真似をしてくれるものだと 俺は思い、思いながら身体を起こした。
俺は どうやら、城戸邸のラウンジの中央にある三人掛けのソファで 寝ていたらしい。
俺は ただ普通に昼寝をしていて、普通に(?)良くない夢を見ていただけだったんだ。
小説でも 映画でも、マンガやドラマでだって、今時 こんな真似をしたら非難轟々だぞ。
夢落ちが許されていたのは、『不思議の国のアリス』までだ。
そんな夢を見ていたのは俺自身なのに、俺は なぜかアテナに腹を立てた。

ただの夢だと、俺は信じていただろう。
『もうすぐ、あなたの希望が ここに やって来るわ。好きなだけ ご覧なさい』
というアテナの声が、俺の頭の中に飛び込んでこなかったら。
次の瞬間、ラウンジのドアが開き、瞬が 俺の方に駆けてこなかったら。

「氷河! 起き上がって 大丈夫なの !? さ……沙織さんが、ラウンジで氷河が大変なことになってるって 言ってたよ! 天秤宮の時より、氷河の生きる力が弱まってるって……。氷河の小宇宙が 全然感じられなくなってたから、僕、慌てて――」
慌てて、瞬は駆けてきたのか。
そんな必死な目をして。
好きだの、でも 避けるだの、不幸になりたいだの、支離滅裂なことばかり言って、散々 おまえを困らせ悲しませた ろくでなしのために。
沙織さんも、どうして そんな話を捏造したんだ。
俺は この通り、ぴんぴんしている。

「何でもない。大丈夫だ」
「で……でも……ほんとに、氷河の小宇宙が消えちゃってたんだよ! 弱まってるとか、そういうんじゃなかった。ほんとに消えてた。まるで どこか別の世界に行っちゃったみたいに……!」
「……」
聖闘士の小宇宙は、たとえ死んでも、その力の片鱗を地上世界に残しているもの。
完全に消えていたというのなら、俺は 瞬の言う通り、その間 別の世界に行っていたのかもしれない。

瞬が俺に拒まれた世界が見ている夢の中。
瞬が 自分の力を信じて戦うことのできなかった世界の夢。
希望の力を持つことのできなかった世界が見ている夢。
今 ここにある世界が、このままでいれば、いつか現実になってしまう世界。
自分の幸福を諦めて、アテナの聖闘士としての務めを全うすれば、それが 俺のために死んでいった者たちへの贖罪になると、俺は思っていたのに。
そんなことで守られるほど――贖罪の片手間で守られるほど――世界の平和は 単純なものじゃなかった。

この地上に生きている多くの人々の、地上の平和を願う強い思い。
その思いを受けとめて、地上の平和を守るために 命をかけて戦う者たちの力。
何より、この地上を守るために戦う者たちが、その胸に 決して消えない希望と 固い信頼を抱き合っていること。
地上世界の平和を守るには、それらのものが不可欠だったんだ。
でなければ、この世界は生き続けることができない。


希望の光。
希望の姿。
アテナは その言葉通り、形のある希望を 俺の前に運んできてくれた。
瞬が、切ない色の瞳で 俺を見詰めている。
俺は、この瞬から、希望を奪うわけにはいかないんだ。
瞬は 俺の希望なんだから。
俺自身が不幸でいても、瞬が幸福でいてくれさえすれば、俺は生きていられる。
容易に そう信じてしまえるほど、瞬は俺の希望だ。
俺は、その希望を失いたくない。

俺は そのために――俺自身が瞬の希望にならなければならないんだ。
暗い闇で覆われた世界の 黒い城の中にいる、光のない目をした瞬を、現実のものにしないために。
俺は、あんな瞬を見たくない。
瞬は、誰よりも優しくて温かい。
瞬は、明るい光の中にいることが 誰よりも ふさわしい人間なんだ。

「瞬。俺は幸福になりたいと願ってもいいんだろうか」
今更 虫のいいことを言っていると、俺自身、思わずにはいられなかった。
だが、問わずにいることもできなかった。
瀕死の状態にあったはずの俺に 突然 そんなことを尋ねられて、少なからず戸惑ったようだったが、瞬は すぐに、
「もちろんだよ」
と、俺に答えを返してくれた。

「俺は愚かで、弱い。見栄や意地や 馬鹿げた思い込みで、様々なことを さっさと諦めてしまう」
だが、そんな俺に、おまえは――。
「力を貸してくれるか」
「氷河の力になれたら、僕は嬉しい」
日頃の支離滅裂振りが幸いして、瞬は 俺の唐突な心境の変化を さほど奇異なこととは思わなかったらしい。
瞬は、俺の身勝手な願いを 嬉しそうに受け入れてくれた。

涙ぐんでいる瞬の瞳は、澄んで優しく温かい。
たった今、自分が 俺だけでなく地上世界を救ったことに、瞬は気付いていないだろう。
世界は、そんなふうに守られ、そして 生き続けるんだ。






Fin.






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