「沙織お嬢様の貴重な お時間を、こんなガキのために徒費させるとは!」
文句たらたらで瞬たちを城戸邸で迎えた辰巳は、
「辰巳じいじは、今日は ご機嫌ダヨ! 茹でたタコさんみたいに真っ赤になってないヨ!」
心底をナターシャに看破されて、黙り込んでしまった。
辰巳が“ご機嫌”なのは、沙織がナターシャとの面談を楽しみにしているからだろう。
そして、“こんなガキ”との面談が、常に張り詰めている沙織の心の慰撫になることを期待しているから。
沙織への――ひいては亡き城戸翁への――彼の忠義心に、瞬は 今では好意しか抱いていなかった。
ナターシャに“ご機嫌なタコさん”呼ばわりされても 怒声を響き渡らせないあたり、辰巳も大人になったのだ。

多忙な沙織が ナターシャとの面談のために割いてくれた時間は30分。
沙織は 親馬鹿のパパと心配性のマーマの口出しは避けたいと考えているらしく、ナターシャは沙織の私室に一人で呼ばれ、氷河と瞬はラウンジで待つことになった。

ナターシャは沙織が女神アテナだということは知っているし、彼女が特別な存在なのだということも感じ取れているようなので、沙織の前で お行儀の悪いことはしないだろう。
沙織は、その強さゆえに寛大で優しい。
『ナターシャちゃんは まだ、4つか5つくらいでしょう』という言葉からしても、彼女が突拍子のないことを言い出すことは――今すぐナターシャに 聖闘士になるための修行を始めるよう言い出すようなことは――ないだろう。
瞬は、そう思っていたのだが、だから心配せずにいられるというものでもない。
それゆえ、沙織との面談を終えて 氷河と瞬の許に駆けてきたナターシャが、ものも言わずに ソファに掛けていた氷河の胸に飛び込んできたことに、瞬の心は不安で ざわめいたのである。


「ナターシャちゃん、どうしたの……?」
ナターシャに少し遅れて、沙織がラウンジに入ってくる。
「ナターシャちゃんは、聖闘士になるのはやめることにしたんですって」
「え」
掛けていたソファから立ち上がった氷河と瞬に、沙織は にこやかに告げた。
氷河に抱きかかえられているナターシャが 僅かに眉根を寄せ、沙織の言葉に頷くように、パパの首に両腕で 強く しがみつく。

「ナターシャ、ピンクの聖衣を着て、パパとマーマと一緒に、アテナ・エクレアを食べたかったけど、パパとマーマを ナターシャの先生にするのは駄目なんだって。ナターシャが聖闘士になりたかったら、何年もパパとマーマから離れて、別の厳しくて恐い先生とシュギョーしなきゃならないんだって。ナターシャ、パパとマーマと離れるのはいやダヨ!」
「あ……」
近親が近親の者に聖闘士になるための指導をしてはならない。
瞬は、そんなルールの存在を聞いたことはなかった。
おそらくアテナは、ナターシャに聖闘士になることを断念させるために、そんなルールを即席で捏造したのだろう。
やはり 沙織も、ナターシャが聖闘士になるための決意をするのは早すぎると思ってくれているのだ。

瞬は 沙織の常識的な判断に安堵し、ほっと短く息を吐いた。
女神といっても、アテナは人間界での暮らしが長い。
彼女は、人間である氷河よりは よほど 人間としての常識を備えている神なのだ。
瞬は、ナターシャと沙織の面談の経緯と結果を恐れていた自分を、大いに反省することになった。
パパと離れてなるものかと、ナターシャは きつく氷河の首に しがみついている。
ナターシャの幼さを失念していた自分に、瞬は胸中で苦笑した。

「ソレニ……」
「それに?」
「女の子が聖闘士になったら、いつも お面をつけてなきゃならないんだって。1日に10分くらいならいいケド、いつも お面つけてたら、邪魔っけダヨ。目がかゆい時、こすれなかったら、ナターシャ、気が狂っちゃうヨ! パパとマーマに ほっぺすりすりもしてもらえなくなるヨ!」
ここで、女聖闘士が着用しなければならないのは“お面”ではなく“仮面”だと訂正することに意味はあるだろうか。
もちろん、“ない”。
瞬は無駄なことはしなかった。

「せめて、あと5年。あと5年は、パパとマーマを大好きなナターシャちゃんのままでおきなさい」
沙織の囁きは、ナターシャの可能性を否定せず、ナターシャの危うさは克服できるものなのだという保証書。
おかげで 瞬は、安堵の上に安堵を重ね、やっと心からの微笑を作ることができたのである。
安堵して――氷河の腕の中にいるナターシャの頬に、そっと指で触れる。
「ナターシャちゃんの可愛い お顔が見られなくなったら、僕も氷河も寂しいな」
「ナターシャ、お面がピンクでも、絶対いやダヨ!」
ナターシャは、色がピンクなら何でもいいというわけではないらしい。
拳を握りしめて力説するナターシャに、瞬は 微笑を禁じ得なかった。

ナターシャには 絶対に聖闘士になってほしくないと思っているわけではない。
ナターシャが 本気で聖闘士になることを望むのなら、その決意を妨げようとは思わない。
だが、今は。――今は まだ。
今はまだ、お面が嫌だと言い張るナターシャに、瞬は安心せずにはいられなかった。

――が。
瞬は、そんなことで安心している場合ではなかったのである。
安心するには早すぎた。
今はまだ。――今は まだまだ。

沙織がそこにいるというのに――お面を断固として拒否したナターシャは、あろうことか、
「ダカラ、ナターシャ、アテナの聖闘士になるのはやめて、アテナになることにしたよ!」
と言い出してくれたのである。
「は?」
ナターシャは何を言い出したのか。
瞬は 咄嗟に理解できなかったのである。
しかし、ナターシャは既に固く決意を固めてしまっていたらしかった。
おそらく、沙織との面談のせいで。

「アテナは お面をつけなくてイイんだヨネ? 綺麗なドレスを着て、パパとマーマと ずっと一緒にいられるんダヨ! アテナしてるのが、いちばん楽しくて嬉しいヨ!」
「ナ……ナターシャちゃん……」
屈託なく、楽しそうで嬉しそうなナターシャの決意表明。
ナターシャは、“スゴク いいことを思いついた”自分に 得意満面の(てい)である。
明るく輝くナターシャの笑顔を見て、瞬の頬からは すうっと血の気が引いていった。
そして、瞬は、自分の隣りに立つ沙織の顔を 恐る恐る横目で窺い見たのである。

「ほほほほほ」
恐れというものを知らないナターシャの無邪気な将来の希望を聞いたアテナが 口許に手を当てて、朗らかとしか言いようのない笑い声を響かせる。
瞬は、短い呻き声ひとつ洩らすこともできなかった。

恐い。
朗らかすぎて、恐い。
瞬は、生まれて この方、これほど恐ろしく 得体の知れない笑い声を聞いたことはなかった。
ハーデスの冷笑やポセイドンの嗤笑など、ものの数ではない。
その二柱の神に、エリスが加わり、オーディーンが加わり、アベルが加わり、ルシフェルが加わり、アルテミスが、アポロンが、ゼウスが、クロノスが加わって 一斉に爆笑しても、アテナ一人の朗笑より恐ろしくはないと、瞬は即座に断言することができた。

だというのに。
だというのに、瞬の試練は それだけでは終わらなかったのである。
瞬は、そんなことで戦慄している場合ではなかったのだ。

“アテナ”というのは仕事や役職の名前ではなく 個人の名前なのだと、ナターシャに説明したいのだが、声が出せない。
早く何かを言って この場を和ませ、ナターシャの決意をジョークにしなければと、気持ちだけが焦る瞬の前で――つまりは アテナの前で――氷河が上機嫌で恐るべきことを言い出してくれたのだ。
「ナターシャがアテナか。それは いいな。ナターシャの命令なら、俺は喜んで、地球の裏側から さくらんぼでもブドウでも取ってくるぞ」
「パパ、ホントー !? 」
「ナターシャちゃん、氷河の言うことを真に受けちゃだめ! 氷河、なに、滅茶苦茶なこと言ってるの!」
「滅茶苦茶なことではないだろう。アテナに望まれたなら、メキシコのドラゴンフルーツでも マレーシアのランブータンでも すぐさま取ってくるのが、アテナの聖闘士の務めというものだ」
「氷河、もう黙って !! 」

もしかすると――こういう欲心や野心のない人間こそが、欲心や野心の無さゆえに気軽に、聖域乗っ取りのような無謀を企むものなのかもしれない。
愛娘の幸福を願うのはいいが(悪いことではないが)、そのために聖域乗っ取りを企てて、ナターシャのパパが第二のサガになるようなことだけは、瞬は勘弁してほしかった。

一難去って、また一難。
常識ある人間には生きにくい世の中。
瞬の周りには、多くの危険が 火山の裾野に転がる溶岩石さながらに ごろごろと転がっている。
平凡な家庭を築くこと、平穏な日常を維持継続することは、あまりにも難しい。
であればこそ、世の親たちは、我が子に“普通の幸せ”を願うのだろう。
今、瞬は、我が子に“普通の幸せ”を願う世の親たちの気持ちを、痛いほど――本当に痛みを伴って――ひしひしと感じていた。






Fin.






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