それから2日間、ナターシャとナターシャのパパとマーマは 平穏な日を(平穏に見える日を)過ごした。
そして、3日目。
前日が夜勤だった瞬は、キッチンで、氷河の朝食(ナターシャと瞬にとっては昼食)のサラダを作るためにレタスを洗っていた。
その時だったのである。
ナターシャが ふいに、瞬に向かって、
「マーマの腕は真っ白で、シミも おソバもないね」
と呟いたのは。

薔薇色のワンピースを買い損ねた“お洋服の日”から ずっと、買ってもらえなかったワンピースを見詰めるような目で、ナターシャが 彼女のマーマを見詰めていることには、瞬も気付いていた。
それが なぜなのか――ナターシャの切なげな視線の意味を、瞬は ナターシャのその呟きで理解した――わかったような気がした。
気に入ったワンピースを買ってもらえなかったことに、ナターシャが拗ねているだけなら いいと思っていたのに(否、瞬は そう思いたかっただけなのだ)、そうではなかったらしい。
――やはり、そうではなかったらしかった。

「あ……。いつも長袖の白衣を着てるからね。白衣が僕の二つ目の鎧なんだよ」
と、ナターシャに告げる瞬の声は微かに震えていた。
最悪の事態を恐れ、予感して。
その予感は 当然のように当たり――冬の次に春が、春の次に夏がやってくるように的中し――瞬が最も恐れていた言葉を、ナターシャは小さな声で――消え入りそうに 元気のない声で、言ってしまった。
「つなぎめもないヨ」
シュラをして『神の域に達する』と言わしめるほど強大な力を持つ乙女座の黄金聖闘士が、幼い少女の小さな呟きに、ありえないほど激しく動揺する。
気付かせないように細心の注意を払ってきたのに――そのつもりだったのに――ナターシャは 今ではもう、その残酷な事実に気付いてしまっているらしかった。

短いパフスリーブの薔薇色のワンピースドレスを『駄目』と言われた時からずっと、ナターシャは 気にしていたのだろう。
その理由を考えていたのだろう。
“お洋服の日”と その日以降、ナターシャが沈んでいたのは、気に入ったワンピースを買ってもらえなかったからではなかったのだ。
氷河と瞬が二人して、ほとんど問答無用で、短い袖の洋服に『駄目』と言ったこと。
氷河と瞬に、肌をお陽様に当てないようにと言われたこと。
その本当の理由に気付いてしまったから、ナターシャは沈んでいたのだ。

「ナターシャ、マーマみたいな腕がいい。つなぎめがなくて、真っ白い腕がいいヨ。パパはマーマみたいな腕が好きなんダヨ。ナターシャ、まるでチョーゴーキンのロボットみたいダヨ! 腕も首も足も つなぎめだらけダヨ!」
気付いていたのに――この2日間、ナターシャは それを声に出して言ってしまってはならないと、自分に言い聞かせていたのだろうか。
必死に我慢して、自分の心の中に 留めておこうとしたのだろうか。
言葉にすれば 皆が傷付くということを、ナターシャは察し、感じていたのだろうか。
あるいは、その言葉を口にすることで、推測を事実と認めなければならなくなることを恐れていたのか――。

そのいずれであっても、その すべてであっても、たまたま目にした瞬の腕のせいで、ナターシャの心の中に蓄積されていた不安と恐れは限界を超えてしまったのだろう。
忍耐の限界を越え、嘆きの堰を切ってしまったナターシャは、その現実を口にした途端、大きな瞳から ぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。

瞬と氷河が最も恐れていた事態。
一人でずっと思い悩み、耐えていたのだろうナターシャ。
瞬は、ナターシャと一緒に泣きたくなった。
ナターシャの悲痛な訴えが その場の空気を大きく震わせる。
その空気の震えに気付いた氷河が、すぐに その場にやってきた。
「ナターシャ……」
ナターシャの涙を見た氷河の顔が強張る。

自分は泣くわけにはいかない――と、瞬は思ったのである。
ナターシャの幸福を願う氷河のため。
ナターシャを、氷河の幸せな娘にしておくために、瞬は、ここで ナターシャと一緒に泣くわけにはいかなかった。

大粒の涙を零し、小さな拳を握りしめ、唇を噛みしめているナターシャの前に しゃがみ込み、その二つの拳を握って、瞬は ナターシャの顔を覗き込んだ。
唇で、懸命に微笑の形を描こうとしながら、
「ナターシャちゃん、知ってるでしょう? 氷河はナターシャちゃんを大好きなんだよ。それは ナターシャちゃんが優しい いい子だからだよ。腕がどんなだとか、首がどんなだとか、そんなことは関係ない。氷河が ナターシャちゃんを大好きで可愛いって思うのは、ナターシャちゃんが優しい心の持ち主だからだよ」

何も悪いことをしていないのに、戦う術を持たず、つらい目に会っている人たちを守り救うために、アテナの聖闘士は存在する。
アテナの聖闘士が強いのは、アテナの聖闘士が戦い続けることができるのは、地上に生きる人々への愛ゆえ、優しさゆえ。
ナターシャには、いつも そう教えてきた。
ナターシャは、アテナの聖闘士を そういうものだと認識し、理解し、彼女のパパとマーマがアテナの聖闘士であることを 誇りに思ってくれているようだった。
ナターシャの周囲では、愛と優しさが 何よりも価値あるもの。
ナターシャのパパとマーマは、ナターシャが優しい心の持ち主であることを、何よりも望んでいる。
ナターシャも、それは わかっているはずなのに。

わかっているはずのナターシャが、今日は瞬の言葉に頷いてくれなかった。
頷かず、一層 激しい声で、瞬に訴えてくる。
「パパはマーマが大好きなんだよ。ナターシャ、マーマみたいになりたいヨ! つなぎめのないナターシャになりたいヨ! マーマは お医者さんでショ! ナターシャを治して!」
「ナターシャちゃん……」

瞬は、それを我儘と言うことはできなかった。
ナターシャの瞳からは、次から次に涙が あふれ出てくる。
ナターシャは優しい いい子なのだ。
ナターシャは何も悪いことをしていない。
何も悪いことをしていないのに、戦う術を持たず、つらい目に会っている。
そんな人を守り救うために、アテナの聖闘士は存在するのに――だというのに、氷河と瞬は、ナターシャを救ってやることができない。
その悲しみを消してやることができない。
ナターシャのパパとマーマはアテナの聖闘士なのに。
ナターシャは 何も悪いことをしていないのに。
小さなナターシャが耐えなければならない理不尽な運命。
小さなナターシャに、運命は残酷すぎるのだ。

「ナターシャ。おまえは俺の娘だ。俺と瞬の娘。俺と瞬は、おまえが好きだ。おまえが世界一 可愛い女の子だと思っている。それだけでは満足できないか」
ナターシャの嘆きに、氷河も動揺している。
否、氷河は、アテナの聖闘士であるはずの自分の無力に 動揺しているのかもしれなかった。
その動揺はわかる。
わかるが、『もっと優しい声で言って』と、瞬は心の中で 氷河を責めた。
瞬も動揺していたから。
瞬こそが、自身の無力に動揺していたから。

「パパはマーマが大好きだって! マーマみたいに、白くて つなぎめのない、綺麗な……パパはマーマが好きだって! でも、ナターシャは つなぎめだらけのロボットだもん!」
「ナターシャ……!」
それは、ナターシャより氷河自身が言われたくなかった言葉――聞きたくなかった言葉。
そんな言葉を口にしているのが、もしナターシャでなかったら、氷河は ためらいもせず、その人間に聖闘士の拳を振るっていただろう。
その言葉を口にしたのがナターシャだったから、氷河は拳を振るうことができず、一層 つらく悲しく やるせなかったのだ。

「つなぎめだらけのロボットでも、世界一 大切だと言っているんだ! それが わからないか!」
「氷河、もっと優しく……!」
悲しさと やるせなさが、氷河の声を険しいものにする。
「マーマ! マーマ! あーんっ」
いつもはマーマより甘いパパの鋭い声に怯え驚き、ナターシャは 瞬に しがみついて、火がついたように大きな声をあげて泣き出した。

「氷河っ。ナターシャちゃんは女の子なんだよ!」
ナターシャの震える肩を抱きしめて、瞬は氷河を責めた。
氷河を責めても どうにもならないことは、瞬とて わかっていたのだが。
「それがどうしたっ。ナターシャは、俺とおまえの娘だぞっ。俺とおまえの娘が こんな愚かなことを言っていいわけがないだろう!」
「氷河っ!」
瞬も取り乱していたが、氷河も支離滅裂である。
氷河は、彼が泣かないために怒っている。
氷河は もしかしなくても、自分の愛している人に その愛を信じてもらえなかった経験がないのだ。
深く強く愛しているから、その愛を信じてもらえないことへの憤りも激しい。

「ナ……ナターシャちゃん、泣かないで。アテナに――そうだ。フィリップスさんに、ナターシャちゃんの傷を消してもらえないか頼んでみるよ。ね」
ナターシャの背中を撫でながら 告げた瞬の慰撫の言葉は、
「駄目だ! それでは何の解決にもならない。それで喜ぶナターシャなら、俺がナターシャを愛せなくなる!」
すぐに、氷河によって却下された。
「氷河……」

氷河の言うことは正しい。
大地を焼く真夏の太陽のように、大地を凍りつかせる極寒の凍気のように、氷河の言うことは厳しく、正しい。
正しいのだ。
だが、なぜ ナターシャが そんな正しさ厳しさに さらされなければにならないのか。
ナターシャに非はない。
ナターシャにこそ、非はない。
そして、ナターシャは泣いている。
誰も悪くないから、戦うこともできず――瞬にできるのは、何も悪いことをしていないナターシャを抱きしめてやることだけだった。

「氷河はナターシャちゃんを大好きだよ。僕もナターシャちゃんを大好きだよ。だから――」
だから我慢してくれと言うのは残酷すぎる。
ナターシャは まだ小さな――これほど大きな悲痛に耐えるには 幼すぎる小さな子供なのだ。
『我慢して』と言うことは、瞬にはできなかった。
「ナターシャちゃん。僕と氷河は、ナターシャちゃんが大好きだよ。それだけは忘れないで」

それでも ナターシャの涙は止まらず、泣き声も やまない。
ナターシャも どうすればいいのか、わからないのだろう。
どうすれば、涙が止まるのかが わからない。
そして、ナターシャのパパとマーマには、ナターシャの悲嘆を消し去る方法が わからなかった。






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