「なーんか、小宇宙がすっげー乱れててさぁ」
「星矢……紫龍……」
どういう表情を作ればいいのか わからないので、笑っている。
そういう顔をして、星矢が頭を掻く。
星矢と紫龍の陰には ナターシャの姿があった。
「おまえたちの小宇宙の乱れに ナターシャからSОSが混じっていたのでな。慌てて 飛んできたんだ」

紫龍の発言の意図は、『地上の平和を守るためにのみ使っていい聖闘士の力を行使して ここに飛んできたのは、おまえたちのだめではなく、ナターシャのためだ』ということ。
光速移動と不法侵入の言い訳が立つと、
「おまえら、ほんとにナターシャのパパとマーマになっちまってるのな。見事な親馬鹿。ナターシャ可愛さで おかしくなってるぞ」
星矢は、氷河と瞬の仲間として 言いたいことを言い、
「ナターシャ、ここに座りなさい」
紫龍は、ナターシャのSОSに呼ばれてきた者が為すべき作業に取りかかった。
瞬の部屋の客間のソファに、ナターシャを座らせる。
幼い子供に高いところから話しかけるのは よろしくないと考えたらしい紫龍は、壁際に置いてあった籐椅子を引いてきて、それに越しを下ろし、ナターシャに向き合った。
ナターシャの側に行こうとした瞬を、星矢が引き止める。

「ナターシャ。ナターシャは、氷河と瞬がナターシャを誰よりも大切に思っていることは わかっているな?」
こういう時、いかにも穏和で、いかにも誠実そうな紫龍の印象は、対峙する人間の心から恐れや疑いを取り除くのに最適。
紫龍に厳しく叱責されることはないと感じ取れるから――ナターシャの心も凪いでいるようだった。
「ウン……」
ナターシャが、素直に小さく頷く。
叱責されることはなさそうだから――というより、ナターシャは既に 自分が我儘だったことに気付いていて、反省も後悔もしているのだ。

こんなことになるとは、ナターシャは思ってもいなかったのだろう。
パパとマーマを責めるつもりはなかった。
悲しませるつもりもなかった。
ナターシャは ただ――ナターシャは ただ、自分の悲しみをどこにぶつければいいのかが わからなかっただけだったのだ。

「いい子だ」
紫龍が、どこの保育士かと尋ねたくなるような微笑を浮かべ、だが、すぐに その微笑を消し去る。
一度 深呼吸をしてから、彼は、厳しさと同情が入り混じったような目と声で、
「もしナターシャが 腕や首に つなぎめのない普通の女の子だったら、ナターシャは氷河や瞬と一緒にいることはできなかったんだぞ」
と、ナターシャに告げた。
「エ……」
それは いったいどういうことなのかと、ナターシャが不安そうに紫龍の顔を見上げる。
紫龍はもう、ナターシャに笑みを見せることはしなかった。

「氷河と瞬、そして俺たちがアテナの聖闘士だということは、ナターシャも知っているな?」
「ウン」
「アテナの聖闘士は、地上の平和を守るために戦う戦士だ。いつ 命を落とすかわからない。そんなパパとマーマといるよりは、普通の家の子供として育った方がナターシャは幸せになれるだろう」
「ソンナコトナイヨ!」
いつも穏やかで、パパのように激することのない紫龍おじちゃんの思いがけない言葉。
ナターシャは すぐに、それは間違いだと反駁した。
いつも明るく陽気な星矢お兄ちゃんが、紫龍の味方につく。
「ソンナコトアルんだよ。いつ戦いで命を落とすか わからない氷河と瞬の子供でいるより、戦いに縁のない家の子供でいた方が安全なのは、考えるまでもないことだ」
「ソンナコトナイヨッ !! 」

星矢と紫龍の言葉に衝撃を受けたナターシャが、拳を握りしめて、二人に食ってかかる。
しかし、星矢と紫龍の言葉に、氷河と瞬は ナターシャよりも大きな衝撃を受けていた。
それが事実だということを、誰よりもナターシャのパパとマーマは知っていた。
知っているから、そして それが事実だからこそ、つらい。
氷河と瞬の苦渋を承知の上で、紫龍が彼の言葉を続ける。

「ナターシャ。ひどいことを言うが……。氷河がナターシャのパパになる決意をしたのは、ナターシャが傷だらけで、つなぎめのある女の子だからなんだ。ナターシャが普通の女の子ではないから――」
「し……紫龍、そんな言い方しないで! ナターシャちゃんは普通の女の子だよ!」
事実なら隠す必要はない――とでも、紫龍は考えているのだろうか。
だから、紫龍は そんなことを言ってしまうのだろうか。
だが、知らせない方がいい事実というものは、人が生きている世界には――社会には、いくらでもある。
瞬の訴えを、しかし 紫龍は無視した。

「ナターシャは普通の女の子ではない。ナターシャは特別な女の子だ。だから、ナターシャは、普通の家では 普通の女の子でないことで悲しい思いをするかもしれない。そうなることを、氷河は案じたんだ。ナターシャが 身体に つなぎめのない普通の女の子だったなら、氷河は ナターシャを普通の家の子供にしようとしていただろう。どんなにナターシャを好きでも、その方がナターシャが幸せになれると考えて」
隠しておきたい事実は、いつも悲しい。
「ナターシャは、その つなぎめがあるから、氷河と瞬を 自分のパパとマーマにすることができたんだ」
ナターシャにも、氷河にも、瞬にも――それは悲しい事実だった。

幼い少女には、非情すぎる その事実。
ナターシャが愚鈍な少女であってくれたら、どんなによかったか。
瞬は、ナターシャに出会って初めて、そう思った。
だが、ナターシャは聡明な少女で――彼女は、紫龍の言葉の意味を正しく理解してしまうのだ。


「ナターシャに つなぎめがなかったら、パパはナターシャのパパになってくれなかったの?」
「そうだ」
「マーマもナターシャのマーマになってくれなかったの?」
「氷河がナターシャのパパじゃないというのは、そういうことだ」
「ナターシャに つなぎめが いっぱいあるから、パパとマーマは ナターシャのパパとマーマになってくれたの?」
「ああ。ナターシャはラッキーだったな」
それを“ラッキー”と、紫龍は言うのか。
瞬の瞳に涙があふれてくる。
それまで、パパとマーマの姿を見るのを恐れるように 紫龍だけを見詰めていたナターシャが、ゆっくりと顔を上げ、彼女は 彼女のパパとマーマの方に 視線を巡らせた。
ナターシャの切ない色の瞳には、いったい何が映っているのか――。

瞳を涙でいっぱいにしている瞬。
氷河は、緊張と怒りで――ナターシャへの怒りではない――まだ顔を強張らせている。
星矢と紫龍は、ナターシャの聡明を信じている顔。
今 この場で 最も冷静に、最も的確に、ナターシャの心と考えを見抜いているのは、彼女のパパとマーマではなく、言ってみれば部外者の紫龍と星矢のようだった。
ナターシャが、一度 きつく唇を引き結び、彼女の心を言葉にする。

「ナターシャのパパは、世界一カッコいいパパだよ」
「ああ」
紫龍が、浅く頷く。
「ナターシャのマーマは、世界一 綺麗で優しいんダヨ」
「知ってる」
星矢は もう笑っている。
「ナターシャのパパはナターシャのパパだけだよ。ナターシャのマーマも ナターシャのマーマだけだよ。他のパパはいらないヨ! 他のマーマもいらないヨ!」
「だろうな」
「だろうなダヨ!」

言うなり、ナターシャは掛けていたソファから立ち上がり、
「パパーっ !! 」
氷河の腕に向かって駆け出していた。
氷河が その場に膝をついて ナターシャの小さな身体を受けとめ、抱きしめ、抱き上げる。
「ゴメンナサイ! パパ、ゴメンナサイ! ナターシャ、ほんとは もっと早く、ゴメンナサイしたかったんダヨ! デモ、なんでだか、言えなかったノ。ナターシャ、ほんとは最初から……ナターシャ、ほんとは最初から……!」

パパを困らせるつもりはなかった。
マーマを泣かせたくもなかった。
ナターシャはただ――ただ、悲しかっただけなのだ。
つなぎめのない腕が、つなぎめのない首が 欲しかった。
そうすれば、パパがもっと自分を好きになってくれるのではないかと思っただけだったのだ。

「わかるわかる。ゴメンナサイは タイミングを逃すと、言いにくくなるんだよな」
氷河の首に しがみついて泣いているナターシャの背中を、星矢が ぽんぽんと叩き、
「大丈夫だ。氷河と瞬は、ナターシャが 優しい いい子だということを、ちゃんとわかっている」
紫龍が、ナターシャの頭を撫でる。
氷河は無言でナターシャを抱きしめ続け、瞬の瞳を覆っていた涙は、冷たいものから温かいものへと変わりつつあった。
氷河が自分のパパで い続けてくれることを確信できたらしいナターシャが、氷河の隣りに立つ瞬の方に 細い腕をのばしてくる。
その小さな手で 瞬の頬に触れ、指先で 瞬の涙に触れ、ナターシャは微かに横に首を振った。

「マーマ。マーマは ナターシャの真似しなくてもいいんダヨ。そんなことしなくても、マーマは世界一 綺麗で優しいマーマダヨ。ナターシャは つなぎめのないマーマが大好きダヨ!」
「ナターシャちゃん……」
紫龍の言う通り、ナターシャは 普通の女の子ではない。
確かに、ナターシャは特別な女の子だった。

ナターシャは賢い。そして、強く 優しい。
その賢さと強さ優しさが、ナターシャを不幸にしないでくれればいいと思う。
その賢さと強さ優しさが、ナターシャを不幸にするような事態を生んではならないと、必ず守り抜いてみせると、ナターシャの小さな手の感触に、瞬は誓ったのである。

「人は誰も同じじゃないんだ。みんな、違う。駆けっこが速い人もいれば、速く走れない人もいる。大きな おうちに住んでる子もいれば、小さな おうちに住んでいる子もいる。人の.運命や人生は不公平で、不平等なんだよ。僕たちには パパもマーマもいなくて、パパとマーマのいる子を羨ましいって思っていたこともある。でもね、だから、僕は僕の仲間に会えた。氷河や星矢や紫龍に会えた。ナターシャちゃんにも会えた。僕は今とっても――」
「マーマはとっても嬉しくてシアワセなんだヨネ!」

不運な境遇にある人間が、必ず不幸になるとは限らない。
どんな境遇にある人間も 幸福になることはできる。
言おうとしていた言葉を ナターシャに先に言われ、瞬は、まだ涙の残る瞳で、ナターシャに頷いたのである。
「そうだよ。ナターシャちゃんは何でも お見通しだね」
「俺とおまえの娘なんだから、ナターシャが賢いのは当然だ」
「どさくさに紛れて、そこに自分を混ぜるんじゃない!」
星矢が、氷河の発言に物言いをつけたが、
「パパは ナターシャのパパだから、お利口さんダヨ!」
それはナターシャによって却下された。

娘に庇われる父親を情けないと思いもしない氷河は、ナターシャの聡明に大満足。
「ナターシャは道理というものがわかっている」
「ウン! ナターシャはドーリトイウモノがわかってるんダヨ!」
“ドーリトイウモノ”が何なのかは わかっていないのだろうが、パパに褒められたことだけは わかったらしいナターシャが満面の笑顔になる。
そして、その笑顔は、その場にいた大人たちをも幸せにしてくれた――ナターシャの幸福を願う大人たちも幸せになった。

人に与えられる境遇は それぞれに異なり、運命は不公平で不平等なものである。
だが、おそらく、“幸せ”は そうではない。
“幸せ”は、手に入れようと思えば 手に入れられるもの。
幸せになれない人間は、それを手に入れようとしていないだけなのだ。

もしナターシャが成長することができなくても、彼女は 幸せになることはできる。
成長して、別の試練が巡ってきても、やはり 幸せになることはできる。
彼女は彼女自身の強さと、彼女の幸福を願う者たちの力で、必ず その試練を乗り越えてくれるだろうから。
瞬は、そう確信したのである。
氷河の娘であることを、心と身体のすべてで喜んでいるようなナターシャの輝くばかりに明るい笑顔が、瞬に そう信じさせてくれた。






Fin.






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