The Tempest






「氷河。あなた、ちょっと インド洋まで行ってきてちょうだい」
アテナが俺をアテナ神殿に呼びつけて そう言った時、俺は それを(たち)の悪い冗談だと思った。
北大西洋や北氷洋なら まだしも、インド洋。
もちろん 冗談だと思った。
なにしろ インド洋ってのは、ギリシャの南にある海だ。
俺に そんな命令を下すなんて、狂気の沙汰としか言いようがない。
おそらく アテナは、最近 フランスで流行っているらしい馬鹿騒ぎを聖域に導入することでも考えているんだろう。
俺は、そう思った。

なんでも、つい先頃――といっても数年前だが――フランスのシャルル9世が、春分の日を新年とする それまでの暦を取りやめ、1月1日を新年とする暦を採用すると、国民に向けて宣言したらしい。
そのせいで、フランスの民は、それまで 春分から4月1日まで毎年 催されていた春の祭りができなくなってしまった。
春の馬鹿騒ぎができなくなったことに不満たらたらのフランス人たちは、4月1日を“嘘の新年”として、これまで通り、春の馬鹿騒ぎを続けているんだとか。
その馬鹿騒ぎというのが、“4月1日の嘘の新年には、どんな嘘をついても許される”という、まさに馬鹿騒ぎとしか言いようのない馬鹿騒ぎ。
その馬鹿騒ぎを周辺諸国も真似し始めているというんだから、欧州人の考えることは よくわからん。
そんな奴等の考えは わからないままでも構わないし、わかりたいとも思わんがな。

ともあれ、何でもかんでも面白がる(たち)のアテナが、その馬鹿騒ぎを面白がって、聖域でも“やらかそう”とするのは、大いにあり得ること。
無論、それはアテナの勝手だ。
アテナは この聖域で いちばん偉い人(というか、神)――なんだから、何でも好きに“やらかせ”ばいい。
だが、俺まで、その馬鹿騒ぎに付き合わされるのは迷惑至極。
地上の平和とアテナを守るために戦うのは、俺たちアテナの聖闘士の務めだが、アテナの悪ふざけに付き合うのは、俺たちの仕事じゃない(そのはずだ)。

「インド洋の方とは、また 随分と大雑把な命令だ。何のために 俺が、そんな南方に行かなければならないんですか」
“南方”というところに力を込めて、俺は嫌味たらしく アテナに問い返した。
俺の生まれは、ユーラシア大陸の北の果て、ロシア・ツァーリ国。
俺は氷雪の聖闘士で、得意なのは冷却技。
インド洋なんて、紅海の向こう、アフリカの南東、アラビア半島の南。
要するに南。暑いところだ――よほどの高地でない限り、暑い場所だ。
そんなところに送り込まれて、白鳥座の聖闘士である俺に、どんな仕事ができるっていうんだ。

決して出張が面倒だからではなく(面倒と思う気持ちは大きかったが)、俺よりも星矢か紫龍あたりを送り込んだ方がずっといい仕事ができるんじゃないかと 俺が考えたのは、ごく自然なことだったろう。
星矢と紫龍が特に暑さに強いというわけじゃないが(そういう話を聞いたことはなかったが)、ちょうど その二人がアテナの護衛のために アテナ神殿の玉座の間に控えていたから、場の流れで ごく自然に俺は そう考えた。
どうでもいいことだが、彼女の聖闘士たちより はるかに強いアテナに、どうして護衛が必要なんだろうな。
それは、ライオンを守るために、ライオンの身辺に か弱いウサギを配置しているようなもんだ。

聖域で いちばん強くて偉い百獣の王が、ころころと楽しそうな笑い声を その場に響かせる。
そして、彼女は、なぜか得意げに、
「面白いことを訊くのね。私が私の聖闘士を ある場所に派遣するとしたら、それは地上世界の平和を守るために決まっているでしょう」
と答えてきた。

地上世界の平和を守るため。
地上世界の平和を守るため、ね。
その言葉を素直に信じることができたら、どんなに幸せなことか。
だが、俺は つい半月ほど前、マーブル紙柄の小物入れが欲しいと言い出したアテナの お遣いで、フィレンツェに買い物に“派遣”されたばかりだった。
アテナは、綺麗な貝殻を拾ってこさせるために、アテナの聖闘士をインド洋に派遣するくらいのことは平気で“やらかし”かねない神なんだ。

「インド洋に邪神の気配でもあるんですか」
とはいえ、俺は彼女の聖闘士。
ふてくされていても アテナの聖闘士。
アテナの聖闘士が、正当な理由もなく アテナの命令を拒否するわけにはいかない。
だから、俺は、一応 アテナに尋ねたんだ。
邪神の気配があるのだとしても、インド洋は俺の管轄外だ――と思いながら。

「かもしれないわ。インド洋の ある島に、怪しい気配があるのは事実なの。そこで、人間業とは思えないことが起こっているのも確か。その調査を あなたに頼みたいのよ」
それまで口許に微笑を浮かべていたアテナが、ふいに真顔になる。
だが、俺は騙されないぞ。
貝が真珠を作ることだって、人間業じゃないと言って、アテナの聖闘士を真珠採りに行かせることくらい、彼女は平気でしてしまうんだ。
アテナへの不信感を隠そうともしない俺に、だが、アテナは真顔で言い募る。

「大事になりそうなら、黄金聖闘士を派遣するつもりなのだけど、その前に事前調査をしてきてほしいのよ。最初から黄金聖闘士を派遣すると――ほら、なにしろ 彼等って隠密行動ができない人たちでしょう。怪しい気配の漂う島があると聞けば、彼等は 調査もせずに、怪しい気配ごと その島を消滅させてしまいかねない。そういう乱暴なやり方は困るのよ。確かなことは、私にもまだ全く わかっていないのだから」
だから、下っ端であるがゆえに加減を知っている青銅聖闘士の俺に、“調査”をしてこいということか。
そう告げるアテナの声音には、憂いと困惑の響きが乗せられている。
確かに、“調査”なんて、ある意味 地味な仕事は、黄金聖闘士たちにはできない仕事だ。
アテナが、いずれ黄金聖闘士を派遣することになるかもしれないと考えているのなら、インド洋上の ある島で何らかの大事が起きている(あるいは、起きようとしている)のは事実なんだろう。
そう考えた俺は、ふてくさるのをやめて、少し真面目になった。

「インド洋の――東アフリカの沖に、アンドロメダ島という島があるの」
アンドロメダ島――その島に、邪神の気配があって、人間業とは思えない何かが起こっているのか?
「アンドロメダ島? そんな島があったんですか。聞いたことがない」
「ええ。そういう島があるの。つい数ヶ月前まで無人島だった島よ。聞いたことがないのは当然ね。アンドロメダ島というのは、たった今、私が勝手につけた名前だから。名前がないと、何かと不便でしょ」
「……」

俺が これから行かなければならない島。
その島に、名前がないのは、確かに不便だ。
確かに不便だが、“タッタ今、ワタシガ勝手ニツケタ名前”?
自分の私有地でもない場所に勝手に名前をつけるなんて、乱暴すぎないか?
数ヶ月前まで無人島だったというのなら、今は無人島じゃないんだろう。
島の住人達が、自分たちが暮らしている島を ひょっこりひょうたん島と呼んでいたら どうするんだ。
島民と話が噛み合わなくなるじゃないか。
我等が女神は、相変わらず無茶苦茶だ。
まあ、これくらい無茶苦茶でないと、今時 アテナなんて商売はやっていられないのかもしれないが。
物事が今よりずっと単純で素朴だった古代に比べると はるかに、今の地上世界は 混沌としている。

そう。
今、地上世界は無茶苦茶状態、混沌の極みにある。
世界は混沌(カオス)の中から生まれたらしいが、だとしたら、地上世界は今、原点回帰を試みているんだ。
聖域は もちろん治外法権だが――ギリシャの神々発祥の地である この国は、現在 イスラム教国であるオスマントルコの支配下にある。
欧州は、ルターの宗教改革の嵐に見舞われ、プロテスタントへの巻き返しを図った カソリックのイエズス会が勢力を伸ばし、英国は英国で勝手に英国国教会を創設。
地上世界の宗教勢力図は、ぐちゃぐちゃの ごちゃごちゃ。

カソリックを批判して起こったルターのプロテスタントとローマのカソリックは それぞれに、自分たちの勢力を広げるべく躍起になって、世界中に宣教師たちを送り込んでいる。
無人島だったアンドロメダ島が 無人でなくなったのにも、おそらく そのことが影響しているんだろう。
いってみれば自然宗教であるギリシャの神(あるいは、その土地の土着の神)が既にいるところに、プロテスタントだのカソリックだのの創唱宗教の信者たちがやってきて、『この島は今日から うちの陣地にする』なんてことを言い出したら、邪神でなくても腹を立てるだろう。
既得権を持つ神が、カソリック、プロテスタントの区別なく、身勝手な人間共を滅ぼそうとしても、それは無理からぬこと。
というか、当然の権利だ。

まあ、地上の平和を守り、人間の愛を信じているアテナとしては、だからといって、そんな神の当然の権利を認めて、アンドロメダ島の神に 身勝手な人間共を殺させるわけにはいかないんだろうな。
ギリシャの神であるアテナに仕える俺が、自分と違う神を信じている異教徒の命を守るために戦うというのは矛盾しているような気もするが、それも地上の平和と 地上に生きる人々の命を守るためとあらば、やむを得ない(のかもしれない)。
そんなところに黄金聖闘士を派遣したら、加減を知らない黄金聖闘士たちのこと、アンドロメダ島と、そこの神と、ついでにアンドロメダ島に上陸した身勝手な人間共を、まとめて片付けてしまいかねないしな。

「どう考えても、あなたが適任なのよ。怪しまれないように、船の難破を装ってアンドロメダ島に上陸して、余計な騒ぎを起こさずに、アンドロメダ島にいる者の正体を探ってきてちょうだい」
調査、下見という作業なら、黄金聖闘士たちよりは俺の方が適任だろう。
だから、俺は、少なからず 引っ掛かるところはあったにせよ、アテナの命令に従って、アンドロメダ島(もしかしたら、ひょっこりひょうたん島かもしれない)に渡ることにしたんだ。
とりあえず、人命がかかった任務ではあるんだし。
――が。

あとで星矢に聞いたんだが。
俺がアテナの前を辞したあと、よりにもよって この俺を南方に派遣するアテナを訝った星矢が、アテナに、
「なんで氷河が適任なんだ?」
と尋ねたら、アテナは、
「氷河のタイプって、清純派の美少女でしょ」
と答えたらしい。
ふざけた話だ。
アンドロメダ島に清純派の美少女なんてものはいなかったんだ。
清純派は――確かに いたんだが。






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