悪夢のような戴冠式から1年が経った ある日。
瞬が氷の山の上の王城に向かったのは、雪と氷に閉ざされたヒュペルボレイオスの都から避難することができず、都の内に僅かに残っていた住人たちの暮らしが いよいよ立ち行かなくなってきたからでした。
瞬は孤児で、ヒュペルボレイオスの都の隅にある孤児院で育ち、その孤児院で いちばんの年長になってからは(といっても、その時 瞬はやっと15歳になったばかりでしたけれど)、自分より小さな子供たちの世話をしていました。
今でも瞬は、孤児院で いちばんの年長者です(といっても、まだ16歳。ヒュペルボレイオスでは成人として扱ってもらえない歳でしたけれどね)。

貧しく幼い子供たちだけでは、南方に逃げることはできません。
そもそも逃げ込む場所の当てがありません。
ヒュペルボレイオスは元は豊かな国でしたので、ヒュペルボレイオスの都には 非常時に備えて 多少の食料の蓄えがありました。
住人の多くが都から逃げだして 人口が減っていたので、孤児院の子供たちにも 少ないながら定期的に食料の配給がありました。
けれど、国が凍りついてから1年。
その蓄えも残り僅か。
寒さのために新しい実りが期待できない今、食料の蓄えが底を尽けば、都の住人たちは飢えて死んでいくことになるでしょう。
体力のない幼い子供たちが真っ先に。

何もしなくても飢え凍えて死んでしまうのなら、何かをしたい。
瞬はそう考えました。
それに、瞬は 信じていたのです。
心を込めてお願いすれば、きっと女王様は彼女の国の民への愛を思い出してくれるに違いないと。

貧しい孤児の瞬は、女王様がどんな人なのかを知らなかったのですけれど、ヒュペルボレイオスの国が雪と氷に覆われてしまう以前、先の王様が生きていた頃は、女王様は 王様の美しいお后様でした。
そして、王子様にとっては優しい お母様だったのです。
女王様が どれほど強大な力を持った魔女であっても、女王様の心のどこかには 以前の優しい気持ちが残っているはず。
その気持ちを思い出しさえすれば、こんなに強大な力を持った魔法使いなのですから、ヒュペルボレイオスの国を覆っている雪と氷を消し去ることだって、簡単にできてしまうに違いあれません。
瞬はそう考えた――そうであってほしいと願ったのです。

都の通りという通りを埋めている雪を かき分け かき分け、瞬は、王城の建つ氷の山の麓までは、何とか行き着くことができまた。
けれど、切り立った氷の山の麓で、瞬は途方に暮れてしまったのです。
巨大な水晶の群晶さながらに そびえ立つ氷の山。
王城の建つ頂まで、どうやって登っていけばいいのか、瞬にはわかりませんでした。
今は氷雪に閉ざされているヒュペルボレイオスの都には、瞬を助けてくれるような大人は誰もいなかったのです。

とはいえ、その氷の山は、元は なだらかな丘。
それほど高いわけではなく、氷の壁も垂直というほど切り立っているわけではありませんでした。
あちこちら植えられていた樹木が氷柱になっていて、足掛かりが全くないわけでもありません。
幸い、瞬は、住人がいなくなった都の金物屋さんで、氷壁登攀に使う氷釘と金槌を見付けることができました。
瞬は、とても痩せっぽちで――身軽で敏捷でしたので、氷壁登りの道具さえあれば、何とか氷の山を登っていくことができそうでした。

魔女の作った氷の山を頂まで登り切ることはできるのか、途中で力尽きてしまうのか。
それは瞬自身にも わかりませんでした。
けれど、その どちらであったにしても、どこにも逃げ場所のない瞬は、諦めれば死が待っているだけ。
瞬は前に進むしか――もとい、山の上に登るしかなかったのです。
少しずつ少しずつ登っていけば、3日もあれば何とかなるだろう――と、確かな根拠もなく、瞬は思いました。
根拠なんか、あってもなくても同じ。
今の瞬に必要なのは、希望だけでした。

氷の山の上には 氷のお城が見えています。
向かうべき場所が はっきりしているのですから、地図も不要。
瞬の行く手を塞いでいるのは 恐れだけ。
瞬が持つべきものは勇気だけ。
瞬は、勇気を振り絞って、王城の建つ氷の山を登り始めたのです。


氷壁に金槌で氷釘を突き刺して よじ登り、更に高い位置に氷釘を突き刺してよじ登り――その作業の繰り返し。
瞬は、暑さにも寒さにも強いつもりだったのですが――実際 強かったのですが――、氷壁を滑り落ちるように瞬に向かって吹いてくる冷たい風のせいで、氷の山の壁の周囲の温度は 山の麓の倍も冷たく、その凍気に侵されて、やがて瞬の手は 動かそうと思っても動かなくなってしまったのです。
それも、よりにもよって、足場になる氷柱が 近くにない、完全な絶壁の途中で。
岩壁登攀の経験のある大人たちでも登ることのできなかった、魔法で作り出された氷の山。
これは、最初から無謀な挑戦だったのでしょうか。

(このまま動けずにいたら、僕は氷の壁に取り込まれて、氷の山の一部になっちゃう……)
それはいい。
それはいいのです。
とてもいいことではありませんでしたが、それだけなら瞬も諦めがつきました。
ですが、そのせいで 瞬が孤児院に戻ることができなかったら、院で瞬の帰りを待っている瞬より小さな子供たちは どうなってしまうのでしょう。
飢えと寒さに苦しめられ、帰ってこない瞬を恨み、命と身体だけでなく 心まで凍えて死んでしまうかもしれません。
それだけは――それだけは、絶対に駄目。
それだけは、絶対に避けなければなりません。
でも、どうすれば、そうなることを避けることができるのか――。

「誰か、助けて……」
瞬のその呼びかけは、声になったのでしょうか。
「神様……ううん、魔女でも魔法使いでも誰でもいい。誰か、あの子たちを助けて……!」
瞬の願いは、神様には届かなかったでしょう。
瞬の その願いは、冷たい風に運ばれて、どこかに飛んでいってしまいました。






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