「氷河、ここを開けてちょうだい。あなたには しなければならないことがあるの。意地を張って、お部屋に閉じこもってしまうなんて、まるで5歳の頃のあなたに戻ってしまったようよ」 扉の向こうから聞こえてきた声。 それは女王様の声――氷河の大切な お母様の声でした。 氷河は、最初、それを吹雪が作る嘆きの声だと思ったのです。 寒い冬の夜に 冷たい雪原を駆け抜ける吹雪の音は、女の人の悲鳴に似ていますから。 でも、今は昼間ですし、ここはお城の中ですし、何より女王様の声は温かかった。 温かくて、その上、喜びの響きでいっぱいだったのです。 「マーマ!」 凍りついている扉を蹴破るようにして 廊下に飛び出た氷河は、そこで、懐かしい お母様の温かい微笑に出会うことになりました。 子供の頃、お母様にあげるために、10年に1度しか咲かない水色の薔薇の花を庭師に黙って 手折り、薔薇泥棒騒ぎを起こした氷河を叱りにきた時の お母様の困ったような笑顔を、なぜか 氷河は思い出しました。 女王様の陰に隠れるように 瞬が ちょこんと立っているのに気付いて、氷河は慌てて お母様を抱きしめるためにのばしていた腕を下に下ろしたのです。 氷河が女王様を抱きしめても、瞬は笑ったりしなかったでしょうけれど。 氷河のその振舞いを見て 笑ったのは、女王様の方でした。 今更 恰好をつけたって遅い――と言うかのように、女王様は その瞳で笑っていました。 「瞬ちゃんが、私を元に戻してくれたの。真実の愛で」 女王様が嬉しそうに言うのを聞いて、氷河は混乱してしまいました。 混乱して――でも、その混乱は、氷河に新しい雪や氷を生ませることはしませんでした。 氷河の寒さを生む力が、お母様が生き返ったことを喜ぶ温かい気持ちに負けてしまったのかもしれません。 「瞬が?」 女王様が生き返ったことは とても嬉しいのですけれど――氷河には、その訳がわかりませんでした。 瞬は、つい さっき、ここで初めて女王様に会ったのです。 その瞬が どうやって 女王様への真実の愛を生むことができたのでしょう。 真実の愛が、そんなに お手軽に生まれるものだなんて、それは氷河には納得できないことでした。 瞬が、ちょっと困ったような上目使いで、女王様の陰から氷河の顔を見上げてきます。 そして、ちょっと もじもじしたような声で、瞬は女王様を凍らせていた魔法が解けた訳を 氷河に教えてくれました。 「あの……多分、女王様を救う真実の愛っていうのは、女王様への愛ではなく、すべてを凍りつかせてしまう力を持った氷河への愛のことだったんじゃないかと思うの。氷河に真実の愛を示して、氷河の心を温める人が現われれば、氷河が凍らせたものも融けるっていう意味だったんじゃないかと……」 「それが おまえ? おまえが俺に真実の愛を? いや……だが、俺は おまえにキスもしていないぞ」 あまりの嬉しさに まだ混乱しているのか、あるいは、もともと 人の心の機微が わからないタイプだったのか、 氷河が 途轍もなく阿呆なことを口にします。 氷河への瞬の真実の愛と、氷河が瞬にキスしているかどうかということの間には、どんな関連性もありません。 それは単に、氷河が そうしたいと思っているだけのことです。 「あの……でも、あの……僕が救いたいのは、僕の命を救ってくれた氷河で、女王様は美しくて優しそうな方だけど、今日 初めて会ったばかりで お話をしたこともない方だし――。だから、氷河を優しい いい人だって信じる僕の心が、女王様を凍らせた氷河の力から女王様を救ったんだと思うの。『氷河のために蘇ってください』って、一生懸命お願いしたら、女王様は温かくなって、それで動けるようになってくれたんだよ」 「俺のために……?」 真実の愛を示された時、人は どんな顔をすればいいのでしょう。 嬉しくて、胸が熱くなって、けれど、瞬の前で喜び浮かれて踊り出すわけにもいかず、氷河の顔は 珍妙に引きつるばかり。 これでは、瞬ちゃんの真実の愛を氷河が喜んでいないように思われてしまう――と、我が子の不器用を案じたのは、誰よりも氷河を愛し、それゆえに 氷河を知っている 氷河のお母様でした。 「瞬ちゃん、誤解しないでね。氷河は、自分の好きな人の前では、いつもこうなの。好きすぎると、その気持ちを うまく言葉や表情にすることができなくて、その分を 行動で示すそうとするのよ。氷河はちょっと……かなり不器用な子なの。氷河は 照れ屋さんなのよ」 何となく――瞬も 氷河のそういう性癖には気付いていました。 瞬は、氷河を優しい人だと信じていましたけれど、これまで ただの一度も、氷河に優しい言葉をかけてもらったことはありませんでしたから。 「氷河は何も悪くないの。氷河は、私を庇って、自分が悪かったように言っているの。本当は、雪を好きだったのは、氷河ではなく 私の方だったのよ。氷河が生まれたのは、真冬の早朝だった。昨晩までの雪が積もって、やんで、朝日を受けて輝く純白の雪景色が奇跡のように美しくて――。私は いつも 氷河に その話をしていたの。マーマは 美しい雪景色が大好き。見たい時に見れたらいいのにって、いつも その話をしていた。特に暑い季節には。それがよくなかったの。氷河は、いつも私に雪景色を見せたいと思い、そのための力が欲しいと願った。その気持ちが強くて――強すぎて、氷河には何でも凍りつかせる力が備わってしまったの。氷河は本当は とても優しい子なのよ。そして、その優しさを言葉ではなく行動で示そうとする照れ屋さんなの」 女王様の解説は、とても わかりやすくて――氷河の奇矯な言葉や表情より ずっと わかりやすくて――わかった証に、瞬は大きく女王様に頷きました。 「わかります。僕、知ってます。氷河は とっても優しい。氷河は僕にも優しくしてくれた。僕はただの貧しい孤児なのに。氷河が優しい人だってこと、僕は、会った時からずっと知ってました」 氷河は かなり不器用で ぶっきらぼうで、言葉や表情をうまく使いこなすことができませんでしたが、瞬は 言葉でも表情でも、もちろん行動でも、愛を示すことができました。 優しい愛に満ちた瞬の言葉、瞬の眼差しに出会った氷河の心臓が、どきっと大きく撥ね上がります。途端に、王宮の床を覆っていた氷が融け、下から 綺麗な模様の描かれたタイルが 顔を覗かせました。 「だが、俺は、よりにもよって 王になった その日から、国を雪と氷の中に閉じ込めてしまうような愚かな男で――おまえに 真実の愛を抱いてもらえるような、立派な男じゃないんだ。これは 何かの間違いなんじゃ――」 真実の愛が女王様を救う。 実際に女王様は救われたのですから、瞬の愛が“何かの間違い”のはずがありません。 「最初に氷河の目を見た時、あんまり綺麗で、僕は 胸が どきどきしたの。その綺麗な目の通り、氷河は優しかった」 「あ……」 大きく撥ね上がった氷河の心臓が、今度は でんぐり返し。 王城を覆っていた雪が融け、氷が蒸発し、お城の中は あっというまに 春の空気。 窓の外が 陽炎が立っているように 揺らいで見えるのは、お城が建っている丘を覆っていた氷が 一斉に溶け出したからのようでした。 この分なら きっと、真っ白な雪に埋もれていたヒュペルボレイオスの都も、やがて 白以外の色を取り戻し始めるに違いありません。 あまりに急激に 氷雪が融け、季節が春に変わっていくのに驚いて、氷河は つい、自分が氷雪の魔法を使えることを自覚した時から ずっと自分に課していた緊張を忘れてしまいました。 氷河は今、決して冷静ではないのに、それでも氷河の氷雪の魔法の力は発動しません。 どうやら、瞬の真実の愛の力は、氷河の氷雪の魔法の力を 簡単に抑えられるほど 強いもののようでした。 「本当は、瞬こそが魔法使いなんじゃないだろうか。春の魔法だ」 「氷河ったら。それは春の魔法ではなく、恋の魔法というのよ」 「こ……恋?」 それは、友情や博愛とは違う、愛の中でもちょっと特別製の、特定個人に向けられる感情のこと。 瞬のように稀有な人間が、世界で最も愚かと言っていい人間に、そんな特別製の思いを抱いてくれることがあるのかと、氷河の心臓は もはや早鐘状態。 「そうかもしれない。僕は、氷河とずっと一緒にいられたらいいって思う」 瞬が はにかむように そう告げた時、ヒュペルボレイオスの都を覆い、国中に広がり、やがては世界中を侵略してしまうだろうと思われていた雪と氷は、一瞬で消えてしまいました。 本当に 一瞬で、氷河の生んだ雪と氷が全部。 それは奇跡のようでした。 王城の建っている山のあちこちで 一斉に花が咲き始めます。 木々は緑の葉を繁らせ、すべてが雪と氷に閉ざされてしまっていた都も すっかり元通り。 誰もが幸福の国と信じていたヒュペルボレイオスは、もっと幸福な国になるために息を吹き返したようでした。 それからのことは、詳しく説明しなくても、誰にでも察しはつくでしょう。 都から避難していたヒュペルボレイオスの民は皆、懐かしい我が家に戻ってきました。 都どころか ヒュペルボレイオスの国から逃げなければならないのかという不安に おののいていた民の心には 明るい希望が戻ってきました。 氷河は、お城の建つ丘の中腹にある離宮を一つ、瞬と瞬が世話をしている子供たちの住まいとして提供し、毎日 そこに通っています。 賢明な女王様は、ヒュペルボレイオスの国を1年間 覆っていた雪と氷は、王子様の大切な人を見付けるために 神様が与えた試練だったのだと、国民に説明しました。 嘘ではありませんし、ヒュペルボレイオスの国民は、それで納得しましたよ。 ある国の王子様やお姫様の大切な人を見付けることは、国にとっても その国の民にとっても、大変重要なこと。 ヒュペルボレイオス以外のいろんな国で、王子様やお姫様の伴侶を探すために大騒ぎが起きていることは、ヒュペルボレイオスの民も知っていました。 国が丸ごと 百年の眠りに就かされることになったり、王子様が 白鳥や野獣やカエルに変えられたり、国が海の底に沈められかけて 王女様を海獣に生贄に差し出すよう命じられたり、たった一足の靴のために 国中の若い娘たちが足の指を切り落としたり。 8つの頭を持つ巨大な怪物に、8人いた王女の7人までが食べられてしまった国や、王女の出す求婚の謎を解くことができず 国中の若者が処刑されてしまった国だってあるんです。 王子様と王女様の恋は、いつも大変。 王子様や王女様に限らず、誰の恋も いつも大変。 そのことを知っているから、大抵の人は、『そうして二人は、いつまでも仲良く 幸せに暮らしました』という、お約束の一文が 好きなのです。 あなたも大好きでしょう? Fin.
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