凍りついてしまった瞬の心。 その心を再び生き返らせてくれたのは、 「瞬。しっかりしろ」 という氷河の声。 そして、 「マーマ。マーマ、お目々、開いたまま、おねむしてるヨー」 三人掛けのソファに座っている瞬の膝に乗り上げるようにして、瞬の頬を撫でるナターシャの小さな手の感触だった。 瞬は幼い頃からの夢を叶えてしまったわけではなく、眠りの中で夢を見ていたわけでもなく――それどころか 瞬は目を閉じてさえいなかった。 センターテーブルを挟んで向かい合って置かれているソファに紫龍と星矢が腰掛けている。 「急に 石像のように動かなくなるから、びっくりしたぞ」 「バルゴの黄金聖闘士ともあろうものが、こんな子供騙しに引っ掛かるなんて、どーしたんだよ!」 そこは光が丘のマンションの瞬の部屋。 瞬が 生活の拠点を氷河の部屋の方に移してからは、居間としてより客間として使われることが多くなっていた空間だった。 星矢がいて、紫龍がいて、ナターシャがいる。 強力な“子供騙し”に気付いて、氷河もやってきたらしい。 瞬は 悪い夢を見ていた――見せられていた――ようだった。 これが子供騙しであるはずがない。 瞬の兄の幻魔拳。 この地上世界のどこにいるのか、彼が どうして弟の窮地に気付くのかは、瞬にも瞬の仲間たちにも わからなかったのだが、ともかく 瞬は 兄によって悪夢を見るように仕向けられていたようだった。 「ったく、幾つになっても最愛の弟なのはいいけどさ。一輝の愛情表現は過激っていうか、派手すぎるっていうか……傍迷惑なんだよ! 氷河なら ともかく 一輝のせいで、こんな寒い思いをすることになるなんて、あり得ねーだろ!」 瞬の悪夢は、瞬だけが見ていたものではなかったらしい。 呆れたような星矢の舌打ちで、そうだったことを瞬は知った。 「せ……星矢、ごめんなさい……僕……」 「ああ、俺にも見えてた。つまり、それが 今のおまえの地獄、最大の悪夢ってことなんだろうな。一輝の奴、こんな変な力ばっかり 強力になりやがって、もっと人を楽しい気分にさせる新技でも編み出せばいいのに。地獄じゃなく天国を見せる技とかさ」 「いや……ナターシャには見えなかったようだし、これは むしろ、一輝ではなく俺たちの方が、見る能力を養ってしまったんだろうな。遠隔幻魔拳が最凶最悪の技だという意見には賛同するが」 「あれが今の僕の地獄……?」 大人たちの口にする“地獄”や“悪夢”の意味がわからず、ナターシャは不思議そうに首をかしげている。 ナターシャに見られなくて――見せずに済んで本当によかったと、瞬は思った。 とはいえ、それは 最悪の事態は免れた――というだけのことでしかなく、地獄から生還したばかりの瞬の気持ちは重く暗く沈んだままだったが。 「僕は……不肖の弟だった。いつも 兄さんの お荷物で、聖闘士になって再会した その日のうちに 兄さんを敵とみなすことも平気でした。兄さんとの約束を破って、戦うことより 氷河を助けることを選んだこともあった。僕は いつだって兄さんの期待を裏切ってばかりいる不出来な弟だったんだ。なのに……冥界で、兄さんは そんな不出来な弟を殺せなかった。そうしなきゃ、世界が滅びてしまうかもしれないのに、兄さんは僕を倒さなかった。僕が生きていることを望んだ。僕は……僕は……兄さんを助けたいんだよ! 兄さんの負担になりたくない。兄さんの役に立ちたい。兄さんが誇れるような弟になりたい。なのに……なのに、どうして兄さんは あんな悪夢を僕に見せるの……! 僕は……僕はまた 氷河を助けてしまうかもしれない……!」 ナターシャの目のあるところで泣くわけにもいかず、瞬は必死に涙をこらえていたが、声が涙を帯びてしまうことは瞬自身にも止めることができなかったのである。 兄が 彼の愛する弟のために、悪夢を見せたのだということがわかるから。 「どうして、一輝がおまえに あんな悪夢を見せるのかって……そりゃあ、悪夢を現実にしないためだろ。一輝は おまえに助けられたくないんだよ。おまえのために」 「……」 兄の気持ちは わかっている。 兄の願いもわかっている。 兄はただ、弟の幸福を願っている。 兄を 喜ばすために、瞬は 自分が幸福でいなければならないのだ。 瞬にも それはわかっていた。 わかっているのだが、わかっているからこそ。 「僕が困るのは……僕が苦しいのは、僕が氷河が好きだからだよ。誰より氷河に生きていてもらいたい。ナターシャちゃんのことがなくても。ナターシャのことがある今は、以前より もっと。僕は 子供の頃から そうだった。母なるものに愛された記憶の中で生きている幸せな仲間。氷河に生きててもらいたい。そして、氷河に幸せでいてほしい。その気持ちが強くて――強すぎて、他のことはどうでもいいって気持ちになることさえある」 それは 決して悪いことではないだろう。 一概に 悪いこととは言えない。 だが、瞬は自嘲のような短い息を 一つ洩らした。 「子供の頃ならまだしも、僕は いい大人だよ。なのに、僕は十代の頃、初めて氷河に好きって言ってもらった時の気持ちを忘れてしまえなくて……。いつまでも、子供のまま―― 一生懸命、大人の振りをしてるけど、あの頃のまま、僕は兄さんに甘え続けているんだ……」 だから せめて、兄が命の危険に瀕している時には、兄を助けたい。 なのに、兄は それを不要だというのか。 『溺れているのが俺と一輝だったら、おまえはどちらを助けるんだ?』 『マーマは、パパとイッキニーサンが溺れてたら、どっちを助けるノ?』 それは究極の選択。 決して選びたくない二者択一。 選ばずに済むなら、そのために何でもする。 本当に、それは究極の選択なのだ。 選びたくない瞬に、瞬が選ぶべき道を示してくれたのは 氷河だった。 すがるように ナターシャを抱きしめている瞬に、彼は言った。 「一輝を助けろ。おまえは、一輝を助けていいんだ」 そう、氷河は言ったのだ。 「氷河……」 瞬が俯かせていた顔を上げると、そこには、上機嫌とは言えないが不機嫌とも言い難い、笑顔とは言えないが渋面とも言い難い、不思議な氷河の顔と眼差しがあった。 ただの言葉遊び。 論理の戯れ。 それが現実のものとなり、おまえが幼い頃からの夢を叶えても、その選択は誤りではないし、罪でもなく、受け入れる――と、彼の瞳は言っていた。 だから瞬は何も言えなくなってしまったのである。 『そうする』とも『そんなことはできない』とも。 何も言えばいいのか わからず、動けなくなった瞬を助けてくれたのはナターシャだった。 「マーマ。マーマ、大丈夫ダヨ! パパはナターシャが助けるから」 「ナターシャちゃん?」 「マーマは一人じゃないヨ。ナターシャがいるヨ。星矢お兄ちゃんに紫龍おじちゃん。きっと みんなでマーマの大切なものを守るから、マーマは安心して、イッキニーサンを助けていいんダヨ」 「ナターシャちゃん……」 それは言葉の遊び。 論理の戯れ。 ナターシャは、瞬よりずっと現実が見えているらしかった。 「ナターシャちゃんが 氷河を助けてくれるの? 氷河は大喜びだね」 究極の選択は、言葉の遊び。 論理の戯れ。 現実とは違う。 現実には――瞬は一人ではないのだ。 いつも一人ではなかった。 瞬は いつも、瞬の幸福を守ろうとする者たちに囲まれていた。 どうして そんな大切な、考えるまでもないことを忘れていたのか――。 自分の迂闊がおかしくて、瞬は つい笑みを洩らしてしまったのである。 瞬が いつもの瞬に戻ってくれたことに安堵したように、ナターシャも笑う。 そして、瞬の幸福を願う仲間たちも。 何者かのSОSで始まった騒ぎは、それで丸く治まっていただろう。 それは大団円を迎えていたはずだった。 氷河が、 「まあ、一輝が おまえに助けられて喜ぶとは思えんがな。一輝は、弟に助けられるような無様で恰好の悪い兄になり下がるくらいなら死んだ方がましだと考える 臍曲がりだ」 などという、余計なことを言いさえしなければ。 「氷河! おまえは どーして そんな、感動的な結末をぶち壊しにするようなことを言うんだよ!」 星矢が氷河の無粋を大声で叱責したが、氷河を責める星矢自身には わかっていた。 氷河はもちろん、紫龍も、そして 瞬ですらわかっていたのである。 氷河の その言葉が正鵠を射たものだということは。 一輝は そんなことを望んでいない。 一輝は、瞬の夢が叶っても決して喜ばない。 それが現実だということは。 Fin.
|