だが。 瞬たちにとっては幸いなことに、老人は堅苦しく頑固な正義漢ではなかった。 彼は、人の心の機微がわかる柔軟な正義漢だったのである。 彼は、緊張しているアテナの聖闘士たちに、人好きのする好々爺然とした笑みを投げてきた。 「私は、自分で言うのも何ですが、勘がいいんです。あなたは、悪事を働くような人ではない。優しく誠実な方だ。今も、私を騙すことができずに困っている。何より、ナターシャちゃんの大好きなパパとママが悪い人のはずはない。友人にも そう言っておきますよ」 「あ……」 老人の言葉と微笑が、瞬の心を安んじさせ、瞬の緊張を消し去る。 その段になって、瞬は、自分がまだ彼の名前すら聞いていなかったことに思い至った。 「あの……お名前――あなたのお名前は……」 瞬に問われて、老人も、自分が名を名乗っていなかったことに初めて気付いたらしい。 彼は、だが、名を名乗らなかった。 おそらく、正体を隠すためではなく、名乗る必要はないと考えたから。 「通りすがりの――いや、ナターシャちゃんの美人のママを見にやってきた野次馬です。年寄りは、暇を持て余しているもので。これから 友人と落ち合って、夕食をとることになっている」 老人の その言葉には、いかなる他意もないようだった。 ただ、瞬たちのことを これ以上 詮索する気はないと、暗に伝えようとしているだけで。 瞬は、彼に、二重の謝意を伝えることしかできなかったのである。 「ありがとうございます」 「ビールのおじいちゃん、またネー!」 「ナターシャちゃん、またね」 謎の老人の微笑は『また』がないだろうことを知ってる微笑。 踵を返すと、歳に似合わない確かな足取りで、浅草寺の方に歩み出した老人の背中に、瞬は もう一度 腰を折ったのである。 瞬が顔を上げた時、人混みの中から謎の老人に声を掛けた もう一人の老人がいた。 それが、彼が これから落ち合う予定だった友人なのだろう。 謎の老人と同じほど――もしかしたら、もっと年上かもしれない。 痩せ気味の謎の老人とは対照的に恰幅のいい、だが、やはり矍鑠とした様子のご老体である。 彼は、謎の老人を、 「キンダイチさん」 と呼んだ。 謎の老人が、 「トドロキ警部」 と応じる。 「またまた。私は もう警部ではありませんよ。どうせ昔の役職つきで呼ぶなら、退職時の警視正と呼んでほしいものだ」 「つい、呼び慣れた呼び方の方が出てしまいまして」 「こんな人混みの中で出会ってしまうとは、これは やはり私とキンダイチさんの因縁なのかもしれませんな」 「あまり おめでたい因縁とは思えませんが」 「まあまあ、そう言わず」 (え……?) 楽しげに、そんなことを語り合いながら、二人の老人が、今度こそ 人の波の中に紛れていく。 どこかで聞いた名前――に、瞬は ぽかんとしてしまったのである。 さほど詳しいわけではないが、“金田一耕助”は終戦直後から その活躍が知られるようになった探偵のはず。 生きていれば、100歳を超えた老人のはずなのだ。 (まさか……ね) まさか そんなことがあるはずはないと気を取り直し、ナターシャの方を振り返った瞬に、 「あの おじいちゃんは、きっと すごいメイタンテイだよ。パパとマーマの名にかけて! ナターシャは、あのおじいちゃんみたいなメイタンテイになるヨ!」 という、元気のいいナターシャの決意表明が降ってくる。 水掛け論に終始するしかない事態を鮮やかに治めてみせた謎の老人の振舞いは、ナターシャの目には名探偵の仕業にしか見えなかったようだった。 (でも、まさかね) とはいえ、“まさか”が 本当に『ない』とは言い切れない。 それは『絶対にない』とは言い切れないことだろう。 世の中には『絶対にない』と言い切ってしまわない方が楽しいこともあるのだ。 それが“あり得る”ことなのか、“あり得ない”ことなのか。 結局、謎の老人は謎の老人のまま、謎だけを残して、瞬たちの前から姿を消してしまったのだった。 Fin.
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