殺生谷の わだかまりは、そんなふうな初恋の話で消えてしまったのである。 否、そんなものは 最初から 存在しなかった。 氷河が瞬に やたらと構うのは、瞬が彼の初恋の人に似ているからで、殺生谷での兄弟の所業と振舞いに遺恨を残しているからではない。 瞬が あの時 兄を庇わなかったら、自分は瞬に幻滅とていただろうとまで、氷河は言い切った。 だから、二人の間には どんな不信も疑念も悪感情もない。 ――という結論に落ち着いた。 にもかかわらず、それから 二人は 妙に ぎくしゃくし始めたのである。 氷河は、これまでのように瞬を構うのをやめ、瞬も自分の方から氷河に話しかけていくことがなくなった。 決して 喧嘩をしているわけではなく、対立し合っているわけでもない。 二人は、正しく“よそよそしくなった”のだ。 “氷河が やたらと瞬に構う”ことに 懸念を抱いていた星矢は、今度は“氷河が まるで瞬を構わなくなった”ことで 不審の念を抱くことになってしまった。 自分が殺生谷の件を蒸し返したせいで、二人が互いを避けるようになってしまったのではないかと、星矢は またしても慌てることになってしまったのだった。 うじうじしているのは性に合わないので、単刀直入に『そうなのか?』と尋ねた星矢への 瞬からの答えは、 「そんなことないよ」 だった。 それで 星矢は安堵の胸を撫で下ろしたのだが、星矢の胸が撫で下ろされていたのは、ほんの数秒。 たとえ“そう”だったとしても、『そんなことはない』と答えるのが瞬という人間なのだということを 星矢が思い出すまでの、ごく短い間だけだった。 瞬の『大丈夫』『心配しないで』『そんなことない』ほど信用ならないものはない。 『そんなことないよ』で、星矢が得心しなかったことに気付いたのだろう瞬が、仕様がないと言うように 軽く肩をすくめる。 おそらく、氷河との間に距離を置くようになったのは天馬座の聖闘士のせいではないことを仲間に知らせるために、瞬は瞬の事情を、星矢に語ってくれた。 「ほんとに星矢のせいじゃないんだよ。殺生谷のことがあったからでもない。ただ……」 「ただ? ただ、何だよ?」 仲間の心の安寧のために 事情を告げないわけにはいかないと思ってはいるのだろうが――瞬は、一瞬 言い淀んだ。 言葉を一度 途切らせてから、覚悟を決めたように、再度 口を開く。 「ただ、氷河の初恋の人って、どんな人なのかなぁ……って思っただけ」 「へ? どんな人も こんな人も――おまえに似てるんだろ。氷河が そう言ってたじゃん」 それだけでは情報が足りないと、瞬は言うのだろうか。 住所、氏名、年齢、性別、電話番号に身長体重、国籍や人種までを知らなければ 落ち着かない――とでも? だが、たとえ命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士といえど、氷河に恋人の個人情報の開示までを求めるのは 野暮というものだろう。 氷河の初恋の相手は、瞬に似ている。 綺麗で優しい手の持ち主で、氷河は その手に幾度も励まされた。 それだけで十分ではないか。 星矢は、そう思い、そういう顔をした。 星矢の そういう顔を、もちろん 瞬は正確に読み取る。 「氷河の初恋の人が どこの誰なのかを知りたいっていうんじゃないの。僕は ただ、僕が氷河の初恋の人に似てるなんて、それは錯覚で、氷河は思い違いをしているか、嘘をついてるんだろうって思うだけ」 「嘘? あー……思い違いってのは あるかもしれないけど、氷河が嘘をつくことはないだろ。もし 嘘をついてるんだとしても、ここは見逃してやれよ。氷河だって、見栄を張りたいことはあるだろうし。自分の初恋の人が、実際は おまえほど可愛くなかったとしても、んなことは言いにくいだろ。おまえに似てるって言っとけば、俺たちは かなりの美少女を想像する。それで みんな、幸せで おめでたく収まるんだから、あえて 真偽を確かめるようなことはしないでおいてやるのが、武士の情けってもんだ」 別に 氷河を庇う義理はないが、氷河の気持ちは わからないでもない。 一輝が、デスクィーン島で出会った少女を『瞬に似ていた』と言うのも、おそらく そういうこと。 『瞬に似ている』は 美少女の認定書。確かな品質を保証するギャランティ・カードのようなものなのだ。 が、氷河が思い違いをしているか 嘘をついている――と、瞬が思うのは、そういうことではなかったらしい。 「そういうことじゃないんだよ。そういう意味じゃなくて、僕の方が――僕こそが 氷河の初恋の人と違って、綺麗で優しい手なんか持っていないっていうこと。僕の手は、血で汚れている――」 「瞬……」 それは、星矢には 想定外の言葉だった。 瞬は、地上の平和とアテナを守るためとはいえ、“敵”を倒すことを そんなふうに考えていたのか――。 考えていたのだろう。 だが、言葉には しにくかったのだ。 瞬の仲間たちも 同じことをしているから。 瞬の眼差しは 悲しそうだった。 「僕……星矢が言っていた通り、氷河に嫌われても当然なのに、氷河が以前と変わらず 優しかったから、うぬぼれて勘違いをしてたんだ。戦いや――いろんなことで 氷河と息が合って、波長が合うから……。そうだね。僕は、僕が氷河の初恋の人に似ていないことが つらいんだと思う。多分……」 言葉の通りに、瞬が つらそうで、悲しそうで――星矢は戸惑った。 これは、アテナの聖闘士の在り方の根本に関わること。 上辺だけの軽い言葉で慰めることはできないし、かといって 冗談に紛らすこともできない。 星矢は、それでも、この場を冗談にしてしまうことしかできなかったが。 「氷河の初恋の人に似てるってことは、つまり 女の子に似てるってことだぞ。男子たるもの、たとえ冗談でも そんなこと言われたら怒るだろ、フツー。怒りもしないで、女の子に似てないのが つらいって何だよ!」 「……うん。ほんとだね」 「ほんとだよ。俺だって、味方と息の合ったコンビネーションプレイが決まると、ちょっと興奮するし、気分も高揚する。別に いいじゃん。氷河の初恋の彼女になんか似てなくても、おまえと氷河は息の合った仲間同士。その方が ずっと いいだろ。多分、氷河の初恋の彼女ってのより、おまえの方が可愛いに決まってるし」 「最後の一言は余計だよ、星矢」 仲間の余計な一言に、瞬が苦笑する。 それが、この場を冗談に紛らすための瞬の(かなり無理をした)思い遣りだということは わかっていたのだが、星矢は 今は、瞬のその思い遣りに頼るしかなかった。 氷河の初恋の人に似ていないことが つらい。 悲しげに 瞬がそう語ることこそが、星矢は つらかった。 |