星矢の奮闘の甲斐なく、結局 それ以降も、氷河と瞬の よそよそしさは解消されないままだった。 瞬は氷河を、氷河は瞬を、さりげなく避け続けている。 それでいて、敵の襲撃があった際の二人の戦い振りは異様に息が合っていて、だから 二人が ぎくしゃくしていることの実害はなかった――実害はないとも言えた。 二人は二人共が、アテナの聖闘士として為すべきことは しっかり果たしており、アテナの聖闘士である星矢は そんな二人に文句のつけようもない。 氷河と瞬が よそよそしくしていることを居心地悪く感じているのは――その状態を“落ち着かない”と感じているのは“アテナの聖闘士である星矢”ではなく、“二人の幼馴染みである星矢”だったのかもしれない。 つまり、“氷河と瞬の幼馴染みである星矢”は、今ひとつ“常識”や“一般”“普通”という概念から外れている氷河を、瞬が さりげなくフォローし、甲斐甲斐しく面倒を見てやっている図というのに 慣れてしまっていたのだ。 それが“自然”で当たりまえの日常になってしまっていた。 アテナの聖闘士の戦いが“非日常的”であるからこそ、戦いのない時は“日常的”であってほしい。 それは、精神のバランスを取るためだけでなく、肉体の疲労を解消するためにも有効で必要なことなのである。 少なくとも、星矢にとっては そうだった。 「だーっ、もうっ !! 氷河の初恋の人が誰だとか、瞬の初恋の人が誰だとか、そんなの どーだっていいことだろ! 氷河の初恋の人と 瞬の初恋の人って、いったい どこの誰なんだよ !! 」 今のところ、何とか死なずに済んでいるが、アテナの聖闘士の戦いは 常に命がけ。 小さな神経の ささくれが、最悪の事態を招くことにもなりかねない。 その最悪の時が そろそろ間近に迫ってきている予感に襲われ、星矢は大声で雄叫んだ。 ラウンジにいた紫龍が その雄叫びに驚くのはともかく、星矢に雄叫びを雄叫ばせた氷河と瞬までが、奇矯な振舞いの人間を見る目を自分に向けてくることが、星矢の繊細な(?)神経を 一層 ささくれ立たせる。 ラウンジの三人掛けのソファの端に寄るように座っている瞬と、そこから最も遠い壁際に立っている氷河を、星矢は交互に睨みつけたのである。 間に距離を置きたいなら、同じ部屋にいようとしなければいいではないか。 にもかかわらず 同じ空間にいようとするから、二人の かもし出す空気に、星矢は苛立つのだ。 苛立つ星矢に、紫龍が のんびりした様子で尋ねてくる。 「星矢。おまえ、氷河の初恋の人と 瞬の初恋の人を知らないのか?」 のんびりした様子で――紫龍は とんでもない発言をかましてくれた。 紫龍は、氷河の初恋の人と 瞬の初恋の人を知っているような口振りで――もとい、紫龍は知っているのだ。 知っているのでなければ、そんな言葉は出てこない。 「知らないのか――って……。紫龍、おまえ、知ってるのかよ !? 」 「知らんこともないが……」 「知らんこともない――って、だって、おまえ、シベリアにもアンドロメダ島にも行ったことないだろ!」 「氷河の初恋の人にも 瞬の初恋の人にも、俺は シベリアやアンドロメダ島で会ったわけではないからな」 「シベリアやアンドロメダ島で会ったわけじゃないって、知ってるだけでなく、会ったこともあるのかよ !? 」 「それは もちろん、ある」 「どこで、いつ!」 星矢の声音は 既に“問う”ではなく“責める”だった。 知っているのなら、なぜ教えてくれなかったのか――。 「日本で。しばしば」 済ました顔の紫龍の その答えは、星矢に、怒りや驚きだけでなく、呼吸することさえ忘れさせてしまったのである。 氷河も知らない 瞬の初恋の相手と、瞬も知らない 氷河の初恋の人を、紫龍は知っているというのだ。 「それって、どこの誰なんだよ!」 氷河と瞬の初恋の相手が何者なのかが わかったところで、問題は解決しない。 事態は改善されない。 瞬は、自分が氷河の初恋の人に似ていないことが悲しく、氷河は 自分が瞬の初恋の相手に似ていないことを腹立たしく思っているのだ。 二人の初恋の相手が判明することで、事態が更に悪化することもあり得るだろう。 だが、訊かずにもいられない。 知らずにいると苛立ちが増す。 だから、星矢は その決定的な質問を発したというのに、紫龍の様子は相変わらず のんびりしたものだった。 「氷河に、初恋の相手にはシベリアで会ったのかと訊いた時に、氷河が その質問を無視したからな。それで わかった」 「そんな、どこぞの勿体ぶった名探偵みたいな推理は披露しなくていいから! 犯人の名前を言えってーの!」 トリックの解明より、犯人が誰なのかの方が大事。 場合によっては十数ページに なんなんとするトリック解説ページを読み飛ばすことも辞さないと言わんばかりの星矢の勢いに、(相変わらず のんびりと)紫龍は嘆息した。 そして、自身の(名)推理を披露する場面を奪われた(名)探偵さながらに、詰まらなそうに、 「氷河の初恋の相手は瞬で、瞬の初恋の相手は氷河だ」 と、犯人の名を告げる。 そうしてから 紫龍は、おそらく物的証拠がないからなのだろうが、 「だろう?」 と、氷河と瞬に確認を入れた。 氷河と瞬が すぐに紫龍に頷かなかったのは、紫龍の推理が間違っていたからではなく、氷河は瞬の初恋の人の正体に驚き、瞬は氷河の初恋の人の正体が信じられなかったからだったらしい。 かなりの間を置いてから、二人は、いかにも疑いを捨てきれていないような様子で、探偵に頷いた。 だが、その場で最も探偵の推理を信じられずにいたのは、氷河より瞬より 星矢だったのである。 「なんで、そーなるんだよ!」 一度 頭の中で叫んでから、星矢は その叫びを声にした。 本当に、なぜ そうなるのかが、星矢には全く わからなかったのである。 「瞬っ! 氷河のどこが“誰よりも強く優しい”んだよ! 氷河ほど、しっちゃかめっちゃかで、名ばかりクールの大間抜け、空回り大得意の重症マザコン野郎は この世にいないぞ!」 星矢の断言に、推理は不要。証拠も不要。 星矢にとって、それは、単なる事実だった。 星矢が探偵に向いていないのは、事実から導き出される結論が いっそ清々しいほど間違っているからである。 しっちゃかめっちゃかで、名ばかりクールの大間抜け、空回り大得意の重症マザコン野郎が、誰よりも強く優しい人間であることは あり得ないことではない――という事実を見逃しているから。 しっちゃかめっちゃかで、名ばかりクールの大間抜け、空回り大得意の重症マザコン野郎が、誰よりも強く優しい人間であることは、大いに あり得ることなのだ。 少なくとも瞬の中では、そうであるらしかった。 「氷河は強かったし、優しかったよ。マーマを愛してて、愛されてて。僕は、マーマのために悲しむことのできる氷河が羨ましくて――そして、お母さんに心から愛された記憶と確信のある人は、強い人なんだろうなって 思った。マーマの愛情を信じることができる氷河は、自分には愛される価値があると思うことができるだろうし、自分の愛にも自信を持てるだろうし、心から 人を愛することのできる人になるんだろう……って。自分の愛と 自分以外の人の愛を信じられる人は、誰よりも強いし、自分以外の人に対して優しくなることもできる。氷河は いつだって 僕の憧れの人だったし、今だって 僕の憧れの人だよ」 瞬は言葉通りに慕わしげな声で そう告げ、あろうことか、本当に憧憬の対象を見詰める瞳で、氷河を見上げた。 その眼差しの中で、氷河が、彼の 綺麗で優しい手の持ち主を語り始める。 「ガキの頃――俺は、マーマを亡くしたばかりで、たった一人で日本に連れてこられた。世界も運命も 俺の思い通りには動かないんだということに、俺は打ちのめされていたんだ。世界は俺を拒絶していたし、だから 俺も世界を拒絶した。俺は すべてを憎んでいて、手負いの獣のように 捨て鉢で凶暴なガキになっていたと思う。当然、好んで近寄る奴はいない。おまえだけだ。おまえだけが、俺を恐がらすに側に来て、声を掛けてくれた。小さな優しい手で 俺の頬に触れて、ここにいるのは みんな、俺の仲間だと言ってくれた。俺は そんなことを 到底 信じる気にはなれなかったんだ。おまえは いつも、その仲間のせいで泣いてばかりいたから。それでも おまえは、みんなを仲間だと繰り返し言って、そう信じていると 俺に繰り返して、最後には、俺に その言葉を信じさせてしまった。小さな おまえの手が、俺に力を与えてくれたんだ。おまえの手が、マーマがいなくても生きていこうと、俺に思わせてくれた。今も、おまえの手を見るたび、俺は その手で俺に触れてほしいと思う」 いつのまにか、氷河と瞬の初恋の人の話は、その初恋が 今も続いている話になっていた。 掛けていたソファから立ち上がって 氷河の許に歩いていった瞬が、その手で 氷河の頬に触れた時、それは決定的なものになった。 そして、星矢は、やっと気付いたのである。 殺生谷も幻魔拳も関係がない。 わだかまりも遺恨もない。 氷河が瞬を構うのも 構わないのも、氷河と瞬が よそよそしくなるのも、根は同じ。 瞬が 氷河の初恋の人に似ていない自分を悲しむのも、瞬の初恋の相手に対して 氷河が腹を立てるのも、同じ理由。 今 現在の自分の恋を どうすればいいのかが わからなくて、瞬は悲しみ、氷河は腹を立てていた。 ただ、それだけのことだったのだ。 わかってみると、それは、気が抜けるほど ありふれた――アテナの聖闘士も地上の平和にも関わりのない、よくある些細な心のすれ違いでしかなかった。 「氷河が 殺生谷でのことを根に持ってるんじゃないかなんて、くだらねーこと 心配して、損した」 そんな心配は、最初から不要だったのだ。 そんな無用の心配を始めてしまったせいで 無駄に苛つき、本来なら生じなかったはずのストレスまで溜め込んでしまった。 絵に描いたような杞憂を演じていた自分に、星矢は すっかり呆れてしまったのである。 が、とにもかくにも、すべては丸く収まった。 これで 城戸邸には日常が戻り、アテナの聖闘士たちも 平和に(?)自らの戦いに励むことができるようになるだろう――と、星矢は思ったのである。 絵に描いたような杞憂が消え去った今、今日これ以降、自分は 日常生活の いらいらを戦いの場にまで引きずって、ストレスフルなバトルを繰り広げずに済むようになるのだと。 それは、アテナの聖闘士たちの命を救い、地上の平和とアテナを守ることにもなる。 全方向 めでたしめでたし。 これ以上ないほどの大団円、ハッピーエンド。 星矢は、この結末に大いに満足したのである。 「紫龍。おまえ、氷河と瞬のこと、気付いていたんなら、もっと早く教えてくれればよかったのに。あの二人を さっさと くっつけておけば、俺も こんな くだらないことで いらいらせずに済んだんだ」 色気より食い気の星矢には、恋愛問題など“こんな くだらないこと”でしかない。 “こんな くだらないこと”では、氷河と瞬が同性同士だということも 些末な事柄にすぎない。 “くだらないこと”だと思っていたのだ、星矢は。 「“触らぬ神に祟りなし”と言うだろう。へたに ちょっかいを出して、あの二人が くっついてしまった時の一輝の反応が恐くてな。星矢、おまえは 実に勇気がある。仲間の恋を実らせるために、自らの命をかけるとは。おまえの友情は 間違いなく真実のものだな。一応 言っておくが、無論、俺は この件に関しては 全く無関係だ」 と、紫龍に言われるまでは。 “こんな くだらないこと”のために、自分が たった一つの命、たった一度きりの大切な人生を棒に振ってしまったことに 星矢が気付いたのは、まさに その瞬間だった。 これを 俗に“後の祭り”と言う。 もちろん、アフターカーニバルは誤訳である。 Fin.
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