少し くすんだ青空の中に、世界一の高さを誇る電波塔の影。 瞬たちは、彼等の時間、彼等の場所に戻ってきていた。 「ナターシャ、皇子様が白鳥になって飛ぶところを見たかったヨー」 氷河の腕の中で、ナターシャが残念そうに訴える。 タケルの死を見ても、ナターシャは、彼が白鳥になることを疑っていないらしい。 それはタケルの死が醜く みじめなものではなかったということだろう。 瞬は、ナターシャの頬に手をのばし、触れた。 「そうだね。残念だったね。でも、ナターシャちゃんと僕の白鳥の王子様は氷河だから、これで よかったんだよ」 「パパが?」 「そう。ナターシャちゃんの側にいたいから、氷河は 白鳥になるのを やめちゃったけどね」 白鳥の皇子は どこかに飛んでいってしまうもの。 いまさらながらに その事実に思い至ったのか、ナターシャは 思慮深そうな目をして こっくりと瞬に頷いてみせた。 「パパは どっかに飛んでいっちゃ 駄目。パパは、いつも ナターシャとマーマと一緒にいるんダヨ」 「無論、そうする」 ヤマトタケルの死は――というより、彼の弱さ愚かさは、氷河には どうあっても不快なものであるらしい。 氷河の声の響きは、相変わらず 不機嫌な時の それだったが、タケルの死を見る以前に比べれば、それは同情の色を帯びたものに変わっていた。 「結局、僕たちは 彼に何もしてあげられなかったけど……」 考えようによっては、アテナの聖闘士もヤマトタケルも似たようなものである。 地上の平和を守るために戦い続け、だが、その戦いは決して終わらない。 そういう意味で、アテナの聖闘士の戦いは、決して報われることのない戦いなのだ。 人はどうして生まれてくるのか。 アテナの聖闘士は なぜ、決して報われることのない戦いを戦い続けるのか。 ヤマトタケルの生と戦いは、そのままアテナの聖闘士たちの生と戦いに重なる。 「自分は何のために生まれてきたのかだの、何のために終わらない戦いを戦い続けるのかだの、自分の命が終わる時に そんなことを考えて、答えを出せないまま逝くより ずっといい」 氷河が不機嫌なのは、ヤマトタケルの弱さ愚かさ自体が気に入らないからではなく、彼の弱さ愚かさが 瞬の心に迷いを生じさせ、傷を残すことを危惧するからだったらしい。 タケルへの不快の念を表に出さないために抑揚のない声で そう告げる氷河を安心させるために、瞬は 少し無理をして微笑を作った。 「氷河には、その答えがわかっているの」 人はどうして生まれてくるのか。 アテナの聖闘士は なぜ、決して報われることのない戦いを戦い続けるのか。 答えは、氷河ではなくナターシャから返ってきた。 「ナターシャ、知ってるヨー。ナターシャは、パパとマーマと一緒にいるために生まれてきたんダヨ! ナターシャは、パパとマーマと一緒にいると、寂しくなくなるんダヨ!」 「それは いい答えだ。ナターシャは天才だな」 ナターシャは天才。 氷河は親バカ。 いつも通りの二人の やりとりは、確かに、沈んでいた瞬の心を 寂しくなくしてくれた。 瞬の口許に、今度は自然に微笑が浮かんでくる。 「俺は おまえに会うために生まれてきた――なんて、歯の浮くようなことを言うつもりはないが、おまえに会えたから、俺は 生まれてきてよかったと思っているぞ」 「氷河……」 甘すぎるケーキを食べた時のように、十分に歯が浮く。 一見 冷ややかな目をした氷河が言うから、瞬は、彼に歯の浮くような言葉を献じられても 何とか 恥ずかしさのあまり取り乱すことをせずに済んでいるのだ。 そして、おそらく、氷河の言うことは正しい。 人は、生まれてきた理由と目的を探すより、生きていく理由と目的を見付けた方がいいのだ。 おそらく、人間には、生まれてくる目的はないから。 人間には ただ、生き続ける理由があるだけなのだ。 ヤマトタケルも、理由があったから、生き続け、戦い続けていたに決まっている。 たとえば、彼が愛する人のため。 たとえば、彼を愛し 必要としてくれている人たちのために。 瞬は、そう思うことにした。 事実も そうであるに決まっている。 「ナターシャちゃんのお願いも叶ったことだし、どこかで お茶にしようか」 瞬の提案を聞くと、ナターシャは ぱっと明るく瞳を輝かせた。 パパとマーマと一緒に 美味しいケーキを食べる。 ナターシャには、それも 大切な“生きる目的”なのだろう。 「ナターシャ、にゃんこのお店に行きタイー!」 「押上猫庫? この時間だと混んでるんじゃないかな」 「じゃあネ。じゃあ、みちくさ餅のお店で 水晶のシンゲン餅ー!」 「なかなか 渋い趣味だ。そうするか」 目的地が定まると、ナターシャの人生を充実したものにするために、吾嬬神社の拝殿に背を向けて、瞬たちは歩き出したのである。 境内を出る時、どこからか『ありがとう』という声が聞こえてきた。 穏やかな女性の声――この神域の主であるオトタチバナヒメの声。 その声が、あまりに温かく 幸福そうなものだったので、瞬はやっと理解したのである。 牡羊座の聖闘士たちの“やらかし”も、レイラインの交差も、この件には全く関係がなかったのだということを。 神の時代に生き、亡くなり、この神社に祀られているオトタチバナヒメの望みは、夫ヤマトタケルの延命などではなかった。 彼女の望みは、彼女の夫が、彼を愛していた人の存在を忘れないこと――彼が愛されていたことを思い出すこと。 その事実を胸に抱いて、彼が幸福に 彼の生を終えることだったのだ。 白鳥になった夫が、迷うことなく自分の許に飛んできてくれるように。 白鳥になった悲劇の英雄ヤマトタケルの魂は、神話の時代からずっと 迷い続けていたのかもしれない。 だが、アテナの聖闘士が 彼の時間に紛れ込んだことで、ヤマトタケルは ついに思い出した。 彼は 多くの人に愛され、彼自身も多くの人を愛していたことを。 そして 彼は、死してなお 彼を愛し続けている人の許に、ついに辿り着いたのだ。 だから、オトタチバナヒメの声は、今は こんなにも温かく 満ち足りているに違いなかった。 ナターシャを片腕で抱きかかえている氷河が、瞬に意味ありげな目配せをしてくる。 オトタチバナヒメの声は 氷河にも届き、氷河の機嫌は 少しよくなったらしい。 (僕たち、少しは彼女の力になれたのかな……) 氷河の機嫌がよくなったということは、そういうことなのだろう。 そう信じて――瞬は 瞬の生きる理由と共に、遠い古代に生きた女性の作る神域を あとにした。 Fin.
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