彼女が星矢たちに求めてきた“ご協力”。 それは、ある陰謀への加担だった。 とんでもない陰謀――ある意味、世界中の人間を欺く 非常識で大掛かりな陰謀の遂行に 力を貸してほしいと、彼女は星矢たちに要請してきたのだ。 その陰謀というのは、なんと、花嫁のすり替え。 すり替えるのは、炎の国の王女と 氷河の恋人。 そんな陰謀を企てる訳は、炎の国の王女は 氷の国の王の妻になることのできない身だから。 パンドラと名乗った黒衣の女は、あろうことか、氷の国の新王妃、氷河の新妻は少女ではないと、真顔で語ってくれた。 彼女の“瞬様”は絶世の美少女ではなく、絶世の美少年なのだと。 瞬が厳に隠していたのは、兄に似ていると噂されていた顔ではなく、その首から下。つまり少年の肢体だったという衝撃の事実を、彼女は 呆れるほど冷静な口調で、“瞬様”の夫と その友人たちに打ち明けてくれたのだ。 打ち明けられた氷河は、再び 阿呆状態に逆戻り。 そして、今度 阿呆状態になったのは、氷河だけではなかった。 事実なのだとしたら とんでもない その事実に、氷河だけではなく 星矢と紫龍もまた、見事な阿呆状態に陥ってしまったのである。 「それ、信じろってのか?」 三人の中で 最初に気を取り直して呟いたのは 星矢だった。 「にわかには信じ難いが……」 続いて 紫龍が疑念を表明し、 「嘘だろう?」 最後に 氷河が、瞬の顔に視線を据えたまま、芸もなく 星矢たちと全く同じ趣旨の呟きを呟いた。 その三人の前で、瞬が、自分の手で 二重のロングヴェールとフード付きのマントを取り除く。 その場に現れたのは、男子の服を着た細身の少年――と見えなくもない佇まいの持ち主だった。 清らかで初々しく可憐な印象は変わらなかったが、確かに 瞬には、いわゆる少女に備わっている媚びや甘えのようなものが かけらほどにも存在していなかった。 それでも 氷河たちがパンドラの言を信じなかったのは――信じられなかったのは――決して 彼等が疑り深い男たちだからではなかっただろう。 『少女のような少年か、少年のような少女か』と問われたら、100人中100人が即答できないような姿の人間だったのだ、瞬は。 氷河の場合は その上に、彼女が男子であるという事実を受け入れたくない、受け入れられないという心情も作用していたかもしれない。 なにしろ 氷河にとって 瞬は、世界中の人間が 彼女以外の女性を妻にすることを許さない人――いわば、宿命の妻、唯一無二の伴侶、他に選択肢のない王妃――だったのだから。 瞬が男子だと打ち明けられた時点で、炎の国の おおよその事情は、詳細を説明されなくても、氷の国の人間たちにも察することはできてしまったのだが。 17年前。 世界には不穏な空気が充満していた。 もし瞬が男子として この世界に現れれば、その瞬間、この地上世界は、炎の力でも氷の力でもない、“民衆の不安と恐怖”という化け物によって、破壊され尽くしてしまっていたかもしれない。 地上世界のすべての命が死に絶えることはなくても、不安に圧し潰されそうになって冷静さを欠いた民衆の暴動によって、相当数の犠牲者が出ていたに違いないのだ。 「本当に男なのか? 実は他に好きな男がいて、俺の妻になりたくないから、そんなことをでっちあげて、俺から逃げようとしているのでは――」 『政略結婚の相手など、政略結婚の相手だというだけで好意を抱けない』とまで言っていた氷河が パンドラに食い下がっていったのは――氷河が その事実を、『そうか、男だったのか』の一言で済ませることができなかったのは――つまり、彼が 彼の妻に好意を抱いてしまっていたからだったろう。 その可憐な様子に阿呆状態になるほど――瞬は、氷河の好みのタイプだったのだ。 瞬が、そんな氷河に 切なげな眼差しを投げてくる。 「そんなことを企むわけがありません。僕は、物心ついた頃から 周囲の者たちに、僕の一生は氷の国の氷河様と共にあるのだと言われて育ち――自分でも そうなのだと信じて生きてきたんです。それが叶わぬことだと 兄に知らされたのは、僕が10歳になった時で……兄の言葉を すぐには受け入れることができず、僕は何日も泣き伏したんです」 氷河たちが初めて聞く瞬の声は――瞬は 声すらも少女のようで、しかも 彼女が語った内容は 恋の告白に酷似していた。 自分の一生は氷の国の王と共にあると、周囲の者たちに言われて育ったというのなら、瞬が男子だということは、ごく少数の限られた人間だけが知る秘密で、その秘密は 長いこと、瞬当人にさえ知らされていなかったのだろう。 だから、幼い頃の瞬は、幼いながら、まだ見ぬ婚約者に 恋をしているようなところがあったのかもしれない。 性の分化が始まる頃に 初めて その事実を兄から知らされて、瞬は何日も泣き伏すほどの衝撃を受けたのか――。 瞬は嘘を言っているようには見えなかった――それは事実なのだろう。 パンドラの説明によると。 17年前、生まれた子を女子と偽ることを思いついたのは 瞬の両親ではなく、それは女神アテナの神託によるものだったらしい。 それで 確かに、この世界は 混乱した民衆による破壊暴動は免れたが、17年が経った今になって、世界を欺いた者たちは 世界を欺いたことの始末をつけなければならなくなってしまったのだ。 その方策を、再び アテナに仰いだところ、アテナは、『氷の国に協力者を作って、氷の国の王の妻の すり替えを試みるように』という神託を下したのだそうだった。 パンドラが瞬の兄から命じられてきた任務は、氷の国に協力者を作り、氷河の恋人と瞬の すり替えを 極秘裏に行なうこと。 すり替え後に 問題が起きぬよう、彼女は 氷の国の人間には 極力 瞬の姿を見せずにいるつもりだったらしい。 「致し方のない仕儀で、瞬様のお姿を余人に見せてしまいましたので、王妃のすり替えが無事に行なわれた あかつきには、大臣たちは ともかく、あの女官長だけは 適当な理由をつけて、王妃付きから外さなければならないでしょう」 と言って、パンドラは忌々しげな口調で 氷河を睨みつけた。 『致し方のない仕儀』を、彼女は、『氷の国の王の余計な口出し』と、はっきり言ってしまいたかったのだろう。 パンドラが はっきり そう言わないのは、彼女にも かろうじて 一国の王の権威を尊重する気持ちがあったから――だったかもしれない。 「炎の国の王家と氷の国の王家では、過去に幾度も血の融合が行なわれてきました。氷河殿にも炎の国の王家の血は流れています。炎の国の王の力と 氷の国の王の力は、今では 原初の頃ほどには純粋なものではなくなっているのです。民が考えているように、両国の王が その力を爆発させるようなことは、よほどのことがない限り、起きない。我々が防がなければならないのは、王の力ではなく 民衆の感情の爆発。大事なのは、氷の国の王の側に 炎の国の王家の血を引く妃がいて、それによって氷の国の王の力が抑えられていると、民衆が信じ、恐慌状態に陥らならないことなのです。氷河殿と氷河殿の恋人の間に御子ができたなら、その御子には 炎の国の王家の血と氷の国の王家の血が受け継がれる。その御子が次代の氷の国の王になる。それで、何の問題もございません」 パンドラが確固とした口調で そう言い切るのは、彼女が彼女の使命を つつがなく果たしたいからなのだろうか。 その主張には、確かに理があった。 彼女が言うように、過去の政略結婚によって 氷河の身体には炎の国の王家の血が流れている。 それは その通りで、彼女の主張は 正論以外の何物でもなかったのだが、彼女は 非常に大きな問題を一つ見落としていた。 一つの大きな問題とは、つまり、 「でもさー。瞬と氷河の恋人をすり替えるには、氷河の恋人ってのが必要だろ。氷河には恋人なんて気の利いたもんは一人もいないんだけど」 という問題である。 |