ともあれ。
蘭子から そういう情報を得ていたので、それから3日後の 夜勤明けに通った早朝の光が丘公園で、またしても不審人物に出会ってしまった時、瞬は慌てず騒がず、ごく冷静に対処することができたのである。
その頃には 瞬は、『自分につきまとうのを やめてくれ』と釘を刺すために、むしろ彼等と接触を持ちたいと思うようになっていたのだ。
もっとも、その時 瞬が ごく冷静に対処することができたのは、医師としての覚悟と日頃の鍛錬によるものだったかもしれなかったが。

早朝の公園で 瞬が出会ったマフィアの一員らしき人物は、20歳を過ぎた成人男子で、ベンチの影に倒れていた。
どういう経緯で そんなことになったのかは定かではないが、公園内で、二つの組織の間で 何らかの衝突が起き、そのトラブルに巻き込まれたらしい。
一見したところ、深刻な外出血は確認できなかったが、ひどい打撲と内出血で、独力で歩くことができそうにないほどの損傷を受けている。
骨も折れていたかもしれない。
目に見える外傷が全くないため、近付いて確認しなければ、彼は ただの人事不省の泥酔者にしか見えなかった。
壊れたスマホが すぐ側に転がっているのは、対立組織の者に奪われるのを避けるために自分で壊したものらしい。
おそらく、素手で。
唯一の流血が拳の近位指節間関節なのは、その際に彼自身が自分で作った傷のようだった。

「大丈夫ですかっ」
周囲に気を配りながら、中国語で尋ねると、彼は うっすらと目を開けて、何か不思議なものを見るような目を瞬に向けてきた。
命に別状はない。
そして、彼は救急車を呼ぶことを望んでいないに違いなかった。

「不本意でしょうけど、我慢してください」
壊れたスマホを彼の上着のポケットに入れ、俗に言う お姫様抱っこで 彼を抱えあげる。
瞬は そのまま、タクシーを掴まえるために 公園の外の通りにつながる遊歩道を歩き出した。
「下ろせ。恥ずかしい」
彼は日本語を解するらしい。
瞬は、もちろん 彼の要求を無視した。
無視して、自分の要求を彼に伝える。

「靴も履かずに、おなかを空かせている子供が公園に一人でいたら、誰だって、放っておくことはできないでしょう。それが誰かなんて気にせず、助けるに決まっています。僕は、誰もがすることを、誰もと同じようにしただけです。特別なことは何もしていない」
「……」
「あなたを捨て置けないのも、同じことです。公園で倒れている人に出会ったら、誰だって、あなたが誰なのかなんてことを気にせず、助けようとする。あんな高価な お礼なんていりませんし、どうしてもお礼をしたいのなら、僕たちの平和な生活を平和なままにしておいてください」

公園を抜け、通りに出ると、タクシーはすぐに掴まった。
華奢な女性に抱きかかえられた怪我人らしき男(と、タクシーの運転手には見えただろう)。
運転手は、瞬たちの前に車をとめ、後部座席のドアを開けてから、一瞬 『とまるのではなかった』と後悔した顔を見せたが、瞬から1万円札を渡されると、言おうとした言葉を喉の奥に押し戻した―ようだった。

「すみません。喧嘩に巻き込まれてしまって、足を挫いてしまったんです。彼、1ヶ月後に結婚式を控えていて、相手の ご両親に、喧嘩騒ぎに巻き込まれるような男だと知られたくない。申し訳ありませんが、彼の言うところまで 運んでやってください。お釣りは結構です。足りなかったら、不足分は彼の家族が、チップをつけて払いますので」
それだけ言って 怪我人を後部シートに押し込み、タクシーから離れる。

チャイニーズ・マフィアの義理堅さなど、善良な一般市民には ただの迷惑。もとい、多大な迷惑。
義理を立てるために 無益な怪我をして、誰に どんな益があるというのか。
チャイニーズ・マフィアの中にも、理の通じる者はいるだろうし、常識的な損得を考えることのできる者もいるだろう。
救いようのない愚か者でないなら、彼等は二度と 自分たちに接触してこないはず。
そう考えて――期待して、瞬は、動き出したタクシーに背を向けたのである。






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