示してもらった親切に 感謝の気持ちを伝える時、高価な物品を贈るのは失礼である。 それは 相手の親切に――つまりは、優しい心に――値段をつけ、金で買うようなものだから。 相手の立場に立ち 相手が喜ぶものを――相手を よく知らない時には、最低でも 相手の迷惑にならないものを――贈らなければならない。 具体的には、2000円以下の洒落たもの、センスのいいもの。 1000円以下なら、なお良し。 金で贖えないものなら、更に良し。 金をかけずに、いかに感謝の心を表現するか、いかに表現できるか どうかが、センスの見せどころ。 瞬ちゃんは 平和と友好を愛する人間なので、上海大熊猫幇と香港烏龍幇が話し合い、協力し合い、知恵を出し合って、見事に感謝の気持ちを示すように。 ただし、香港烏龍幇は、瞬が立て替えたタクシー代を別途 返却すること。 ――という条件を、上海大熊猫幇と香港烏龍幇の大ボスの代理人に、蘭子は突きつけたのだそうだった。 それが容易にクリアできる条件ではなかったからこそ、上海大熊猫幇と香港烏龍幇は 蘭子が提示した条件を拒絶できなかったらしい。 そうして 半月後、蘭子経由で 瞬の許に届けられた二つの組織から“感謝の心”は2枚のハンカチだった。 上海大熊猫幇からは、色鮮やかで華やかな蘇州刺繍が施された1枚。 香港烏龍幇からは、純白で上品な汕頭刺繍が施された1枚。 柄は、どちらも梅と牡丹。 角の一つに『捺搭沙 和 瞬』と瞬の名とナターシャの名が、その対角に それぞれ大熊猫幇と烏龍幇のロゴらしきものが 小さく刺繍されている。 テーブルに広げられた、対照的な2枚のハンカチを見て、ナターシャは瞳を輝かせた。 「ワア、キレーイ! パパ、マーマ! ナターシャ、こんなにキレイなハンカチ、初めて見たヨ! おんなじ お花の模様なのに、真っ白とピンクだと 全然違うヨ!」 ナターシャが きらきらと瞳を輝かせるのも道理。 それは実に見事な工芸品。否、超絶技巧で作られた芸術品というべきものだった。 そういえば、あのダイヤのペンダントにつけられていた紐にも、人間業とは思えない技術で 瞬とナターシャの名が刺繍されていた。 あれは、蘇州刺繍の技で施されたものだったのだろう。 「そのハンカチ、上海大熊猫幇と香港烏龍幇の大ボスの ご母堂の手に成るもので、布代と糸代以外に 金はかかっていないって言ってたわ。実費は1000円くらいだって。でも、今は、蘇州刺繍も汕頭刺繍も 手刺繍できる人間が減っていて、市場に出回っているのは ほとんどが機械刺繍なの。材料費は1000円でも、このハンカチ、1枚 10万くらいはすると思うわ。使わずに 綺麗なまま保管しておけば、技術者がもっと減る20年後くらいには 1枚 500万くらいにはなるんじゃないかしら。考えたもんだわ。粋なお礼よね」 「本当に……とても綺麗です。ナターシャちゃん、よかったね。今度の お出掛けの時に 持って行こうね」 「ウン! ナターシャ、オデカケの時、ウサちゃんのバッグに入れて持っていくヨ!」 「あら、やっぱり使っちゃうの……」 そうするのだろうと思ってはいたらしく、綺麗なハンカチに ご機嫌なナターシャを見て、蘭子は少しく残念そうに笑ってみせた。 「ま、これを持っていれば、大陸はもちろん 日本のアブナイ人たちも、迂闊にナターシャちゃんに手出しはできなくなるでしょうから、特別製の お守りみたいなものね」 上海大熊猫幇と香港烏龍幇の大ボスの ご母堂たちの手刺繍には、そういう ご利益もあるらしい。 確かにそれは、ナターシャの身の安全を希求する人間には 最高のプレゼントだった。 「蘭子さん、ありがとうございます。お忙しいのに、お手数を おかけしてしまって。お礼に――」 「あ、いいのよ、お礼なんて」 瞬の言葉を、蘭子は 右の手を大きく振って遮った。 「お礼は、上海大熊猫幇と香港烏龍幇の方から受領済み。今回の仲介料として、最高級の紹興酒の入手ルートを提供させたから」 さすがは蘭子、抜け目がない。 だが、それは瞬からの礼にはならず、瞬は どうしても自分の感謝の気持ちを蘭子に示したかった。 「ナターシャちゃんのために綺麗なハンカチを手に入れてくださったお礼に、これから氷河が毎日、蘭子さんに、蘭子さんのためだけの極上の笑顔を提供しますよ」 「まあ、素敵」 実は、そんなものを これまで一度ももらったことのなかった蘭子は、瞬からの礼に、ナターシャより嬉しそうに明るく 瞳を輝かせた。 示してもらった親切に 感謝の気持ちを伝える時には、相手の立場に立ち 相手が喜ぶものを 贈らなければならない。 この場合、当然のことながら、氷河の意思は考慮されないのだった。 Fin.
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