世界に一つだけの花束






形だけは微笑の それだったのに、そこにいるのが氷河だけだと知ると、瞬の表情は暗くなった。
開店まで、30分ほどの間がある氷河の店。
瞬の形だけの微笑は、ナターシャのためのものだったのだろう。
ナターシャが そこにいないことを知って、瞬は 無理に笑顔を作るのをやめたのだ。

幼い頃から、氷河は瞬の笑顔を見ているのが好きだった。
常に笑顔でいろと無茶を言うつもりはないが、目の前で 露骨に笑顔を消し去られるのは愉快なことではない。
瞬が 自分の前で 表情や感情を偽らないこと自体は嬉しいのだが、だからといって、瞬の沈んだ表情を歓迎できるわけもない。
瞬は、今日は、午前中は病院で診療、午後は都心のホテルで遠隔診療の勉強会に出席。
光が丘のマンションに帰宅する瞬に ナターシャを手渡すため、氷河は今日はナターシャを連れて店に出勤していた。

「どうした」
カウンターの中から、瞬に声をかける。
瞬は それには答えずに、
「ナターシャちゃんは?」
と、逆に氷河に尋ねてきた。
ここで引き取るはずになっているナターシャの姿が見えないことを案じた――というより、瞬は この場にナターシャがいないことに心を安んじたのかもしれなかった。
瞬は、勘のいいナターシャの前で偽の笑顔を看破されずにいる自信がなかったのかもしれない。

「シュラに、日比谷のフルーツショップに連れていかれた。女性でないとオーダーできないレディースプレートがあるんだとか。ママも一緒について行ったんだが、ママが女性と見なしてもらえるかどうかは怪しいからな。開店までには戻ってくる」
「そう」
シュラが、女性限定メニューを食したい時に ナターシャに同伴を頼むのは いつものこと。
ナターシャではなく瞬を同伴するのが最も確実なのだが、それがわかっていてもナターシャを連れて行くのが、シュラの筋の通し方らしかった。

「で?」
氷河が重ねて尋ねる。
氷河は、『ナターシャちゃんは?』でごまかされるつもりはなかった。
氷河の追及を逃れられないことはわかっているらしく、瞬が大人しく カウンターの席に着いて 短く吐息する。
そうしてから 瞬は、自分の表情が暗い訳を語り始めた。

「ちょっと……自分のしたことが正しかったのかどうか、わからなくて――」
「正しかったに決まっている」
事情も聞かずに、氷河は断じた。
決して 無責任な決めつけではなく――言ってみれば、それは信頼だった。
瞬は正しいことをする。
だが、相手の気持ちを慮るあまり、瞬は迷うのだ。
氷河の断言に、瞬は微かな笑みを浮かべた。
「うん。間違ってはいなかったと思う。でも……」
瞬が言い淀み、氷河は無言で続きを促す。
瞬は もう一度、今度は大きく長く――深呼吸をした。

「今朝 病院に行く途中で、自殺しようとしていた人を助けたの。うちの病院の近くに、高層アパートがあるでしょう。あそこの屋上から飛び降りようとしてた高校生。僕、つい光速でアパートの屋上まで飛んじゃって――彼は、自分が どうして飛び降り損なったのか、わかってなかったと思う」
「それがよくないことだったかもしれないと迷うようなことか? 自殺をしようとしている人間など――まして、高校生なら、どうせ まともな精神状態ではなかったに決まっている」
「うん、そうなんだけどね……。彼、うちの病院の入院患者だったんだ。うちの病院は あまり高くないから、確実に死ねないだろうと思って、目についた高い建物に登ったんだって」
「闘病苦か?」
そう問うてから、瞬の答えを待たずに、そうではないだろうと思う。
問題の高校生は、病室を抜け出して近所のビルに移動できる程度には元気なのだ。
瞬が、縦にとも横にともなく首を振る。

「入院して1週間。闘病らしい闘病はしてない。外科の患者だったし」
「外科?」
病院から外に移動できたのなら、両脚切断のような深刻な障害を負ったわけではないだろう。
にもかかわらず、自殺を図る。
その高校生の気持ちが理解できず、氷河は片眉をしかめた。
「怪我だよ。ただの怪我と言っていいかどうかはわからないけど。半月板の断裂と下肢アライメント異常。日常生活に多少の支障は出るけど、歩けなくなるわけじゃない。だから、まさか自殺を図るなんて、誰も思ってなかったんだろうね。だから、付き添いをつけずに 一人にしておいたんだと思う。でも、彼、なぜ助けたんだ、こんなポンコツな身体はいらないとまで言って――。心配だったから、病室まで連れ戻って――手術を終えたばかりで個室だったから、一人にできなくて、しばらく ついてたの。未遂だったし、繰り返そうとしないなら、大ごとにしない方がいいだろうと思って」

『生きていたくても、生きられない者もいるのに』『そんな阿呆は放っておけ』という類の言葉を、氷河は、瞬のために口にしなかった。
言ったところで無駄。
瞬に そんなことができるわけがないのだ。
阿呆が阿呆だからこそ、瞬は そんな人間を放ってはおけない。






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