「マーマ!」 ナターシャが店の中に飛び込んできた時には もう、瞬は いつもの瞬に戻っていた。 あの高校生の担当医には、彼の身辺に気を配るよう頼んできた。 彼は 生きているのだ。 しかも、まだ若い――幼いと言っていいほどに若い。 生きてさえいれば、生き続けるために。否応なく 希望は 彼の中に生まれてくる。 「ナターシャちゃん、お帰り」 瞬は、ナターシャのために笑顔を作らなかった。 明るく輝いているナターシャの瞳に出会うと、それは自然に浮かんできた。 ナターシャに続いて店内に入ってきたシュラと蘭子に、軽く会釈をする。 「ナターシャちゃん、シュラさんのお手伝いはちゃんとできたの?」 「ウン! シュラは 女の人用のフルーツサラダと玄米茶味のアイスクリームとマロンプリンの盛り合わせを食べたんダヨ。それで ナターシャと蘭子ママは、フルーツいっぱいの綺麗なゼリーを食べたノ。コラーゲンとビタミンたっぷりで、お肌が すべすべになるんダヨ!」 ナターシャのチョイスには、蘭子の美容指導が入ったらしい。 ナターシャが 瞬の手を取って、その手を自分の頬に運ぶ。 「ほんとだ。ナターシャちゃんの ほっぺ、すべすべだね」 瞬に そう言われると、ナターシャは嬉しそうに笑って、テーブル席のソファに お行儀よく腰を下ろした。 瞬も、その向かいの席に移動する。 シュラは 今日も いつも通りに 氷河と争うほどに表情が乏しいが、彼は ナターシャ以上に今日の収穫に満足しているらしい。 「玄米茶味のアイスクリームは、あのプレートでしか食えないんだ。協力、感謝する」 にこりともせずに ナターシャに礼を言って、彼は着替えのためにロッカールームに姿を消した。 蘭子が、それまで瞬が腰を下ろしていたカウンター席に陣取って、テーブル席に移動した瞬に尋ねてくる。 「夢がどうしたとか話してたようだけど?」 本当のことを言うわけにはいかないので、瞬は、 「あ、ええ。ナターシャちゃんの夢ってどんななのかなって、氷河と話していたんです」 と言って、事実を隠蔽した。 そして、ナターシャに尋ねる。 「ナターシャちゃんの夢はなあに?」 「マーマみたいになること!」 ナターシャからは、元気な即答が返ってきた。 「あら。ナターシャちゃんは お医者さんになりたいの?」 「違うヨ。ナターシャは、おいしいケーキと綺麗な お花と 可愛い お洋服を売るナターシャのお店を作るんダヨ。そのお店で、正義の味方を働かせてあげルノ。無断欠勤しても、ナターシャは首にしないヨ。ナターシャは、優しいおーなーになるんダヨ」 成人男子である(ように見える)シュラが お子様ランチやレディースメニューに挑むのに付き合わされたあげく、ナターシャは シュラの就活の愚痴まで聞かされているらしい。 「ただし、イケメンに限るんダヨ! イケメン揃えれば、お客さんがいっぱい来るヨ!」 更に、蘭子の入れ知恵。 ナターシャの夢が叶った時、イケメンのアテナの聖闘士たちが おいしいケーキと綺麗な お花と 可愛い お洋服を売るナターシャのお店は、いったい どんな様相を呈しているのか。 想像を絶する光景を想像してしまったせいで、瞬の自然な微笑は 不自然に引きつることになってしまった。 「だったら、ナターシャちゃんは 瞬ちゃんみたいになりたいんじゃなく、アタシみたいになりたいんでしょ。ナターシャちゃんの夢は『マーマみたいになること』じゃなく『ママみたいになること』なのよ」 「ナターシャのお店は、ナターシャのお仕事ダヨ。ナターシャは、お仕事とは別に、マーマみたいに綺麗で優しいオトナになって、パパみたいにカッコいい彼氏と仲良くなるんダヨ!」 「あ、ナターシャちゃんは、お仕事とプライベートの両方を充実させる予定なのね」 ナターシャは なかなか野心的である。 ナターシャには なりたいものがあり、したいことがあり、人の役に立ちたいという気持ちがあり、そして もちろん、自分と自分の周囲の人間の幸福を望んでいる。 ナターシャには たくさんの夢があり、夢いっぱいのナターシャは 元気で明るい。 ナターシャの夢は まだ叶っていないのに――ナターシャは ただ夢を持っているだけなのに――彼女は 夢を持っていない高校生より はるかに幸せそうに見える。 実際に、彼女は今 とても幸せなのだろう。 大人が子供たちに『夢を持て』と言うのは、もしかしたら、いつか やってくる未来ではなく、たった今、子供たちに幸せでいてほしいと思うからなのかもしれない。 瞬は、そう思ったのである。 だから、 「俺のように恰好のいい男は まずいないから、その夢は諦めた方がいい」 と、真顔でナターシャに言う氷河は“大人げない”のだ。 「氷河!」 瞬は、子供の夢を否定する“大人げない”氷河を非難しようとしたのだが、ナターシャは 自分の夢を諦めろと言われても、さほど落胆した様子は見せなかった。 ナターシャは、いたって聞き分けがよく、『俺のように恰好のいい男はいない』という氷河の言を、実に素直に受け入れた。 「パパみたいにカッコいい彼氏はいないノカー。じゃあ、ナターシャ、シュラみたいな彼氏でもいいヨ!」 「ナターシャ! 夢は大きく持て!」 「氷河……」 氷河は、言っていることが滅茶苦茶である。 氷河は、ナターシャに彼氏ができることが そもそも 嫌なのだ。 さすがのナターシャも、氷河に好き勝手なことを言われて、どうすればいいのか わからなくなってしまったらしい。 「マーマみたいになるのは、とっても難しいヨ……」 と 途方に暮れるナターシャに、 「難しい夢を 頑張って叶えるからこそ、夢が叶った時の喜びは大きいんだ」 と、澄ました顔で言える氷河は偉大である。 そんな氷河に、 「ウン! ナターシャ、頑張るヨ!」 と 素直に頷くことのできるナターシャは、氷河に輪をかけて偉大だった。 |