勤務時間終了と同時に、瞬が病院を飛び出すことになったのは、それから ちょうど1週間後のことだった。 いっそ光速移動をしたいと逸る気持ちを抑えるのに、瞬は ひどく苦労した。 マンションのエントランスゲートを抜け、自分の部屋ではなく氷河の部屋に直行する。 「マーマ、お帰りなサーイ!」 「ただいま、ナターシャちゃん。いい子にしてた?」 「ナターシャは 今日も いい子だったヨ!」 「ナターシャちゃんは、着々と 連続いい子記録を更新してるね。氷河は?」 「パパはお部屋で、お仕事に行く準備中ダヨ」 「ありがとう!」 いつになく慌ただしい瞬の様子に戸惑い、ナターシャが瞬きを繰り返す。 ナターシャの戸惑いへのフォローはあとにまわして、瞬は氷河の部屋に飛び込み、その勢いのまま 彼に飛びついてキスをした。 出先ではもちろん 家の中でも 滅多に表情を動かさない氷河が、平生の瞬らしからぬ その振舞いには さすがに驚いたらしく、大きく瞳を見開く。 「氷河! 彼が リハビリを始める気になってくれたの!」 瞬が弾んだ声で報告すると、氷河は通常営業の仏頂面に戻り、唇の端にシニカルな冷笑を浮かべた。 「それで嬉しくて、お裾分けか」 「日本サッカー教会の偉い理事さんが、彼のクラブの監督さんやチームメイトと一緒に お見舞いに来てくれたんだ。それで、その偉い理事さんが、プレイヤーとしてでなくてもサッカーに携わっていたい気持ちがあるのなら、指導者候補やトレーナーになって、一緒にワールドカップを目指そうって言ってくださったの。ワールドカップ優勝は すべての日本人の夢だ。その大きな夢を、みんなで叶えよう――って。その理事さん、もう60歳を超えてる方なんだけど、誰より大きな夢を持ってらした。彼、びっくりして……最初は口もきけずにいた」 「ふん。お偉い理事さんに勧誘されたから、やる気になったのか? 命の恩人には好き勝手なことを わめいていたくせに、権威に弱いとは」 気負い込んで 一気に まくしたてた瞬の喜びに水を差すように、氷河が皮肉を言う。 瞬は、そんな皮肉は聞かなかった。 「今日まで クラブの仲間たちが お見舞いに来なかったのは、これまでの彼の頑張りを ずっと見てきてたから、何て言えばいいのか、かける言葉が見付けられなかったからだったんだって。理事さんの提案があれば、励ますこともできると思って、やっと お見舞いに来れたって、言ってた。彼に 友だちがいないなんて、それこそ彼の誤解だったんだ。自分の夢に向かって頑張ってる彼を、彼の周囲の人たちはみんな、ちゃんと見ていたんだよ」 「その友だちとやらも、協会の偉い理事の前で いい子の振りをしようとしただけかもしれん」 「彼も、彼の仲間たちと一緒に 大きなブーケを作ることにしたみたい。彼、笑ってくれたの。きまりが悪そうに、でも 笑って、『死ななくてよかった』って、僕に言ってくれたよ」 「気付くのが遅すぎる」 繰り返し 皮肉と嫌味を返してくる氷河を、だが、瞬は 咎めることはできなかったのである。 そんなことをする気もなかった。 「サッカー協会の偉い理事さんは、友人から彼のことを聞いて、彼の努力と経験を捨て置けないって思ったんだって。その理事さんの友人っていうのが、蘭子さんみたいで……氷河が蘭子さんに頼んでくれたんでしょう?」 「俺が?」 『違う』と、氷河は言おうとしたようだった。 確信に満ちている瞬の様子を見て、ごまかし切ることはできないと判断したらしく、少々 不服そうに、氷河が短く吐息する。 「スポーツ界の重鎮には、綺麗なドレスやアクセサリーを愛好するマッチョや元マッチョが多いらしい。同好の士の頼みでは、協会のお偉い理事さんも無下にはできなかったんだろう」 「うん」 「一応 言っておくが、俺は、馬鹿なガキのためじゃなく、おまえのためにしたんだ」 「うん。ありがとう。氷河、大好き。もう一回 キスしてもいい?」 「それは……構わんが――」 二人の足元にはナターシャがいて、興味津々の目をして、パパとマーマの仲良し振りを見上げている。 瞬が ここまで 大っぴらなのは珍しい。 氷河は 少々――かなり――調子が狂い気味だった。 逆に 瞬は、ナターシャに、 「夢が叶ってかったネ、パパ。パパはマーマのために、ヒビ フンコツしてるんだヨネ!」 と言われても、余裕で微笑を維持継続している。 「僕とナターシャちゃんのためにね」 ナターシャの言葉に訂正を加えて、瞬はナターシャを抱き上げた。 「ナターシャちゃん。夢って、本当に綺麗な花束のようだね。たくさんの花が集まって、寄り添って、支え合って、大きくて綺麗な夢を叶える。世界中が大きな一つの花束になることが、僕の夢なんだよ」 「マーマの夢が いちばん おっきいヨ! ナターシャも頑張るヨ!」 夢見る人の瞳と心は、周囲の人間を引き込み、巻き込み、更に大きくなるようにできているらしい。 ナターシャは瞳を輝かせ、歓声をあげて、瞬の首にしがみついてきた。 「それでも、ナターシャが 俺より恰好のいい彼氏を見付けるのは、どうしたって無理なことだと思うんだが……」 脇で氷河が何か言っていたが、綺麗な花のブーケに心を奪われているナターシャの耳には、氷河のぼやきは聞こえていないようだった。 瞬も もちろん、聞こえない振りをした。 Fin.
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