蘭子は、呆れるほど 融通の利く(利きすぎる)優しいオーナーである。
瞬たちの顔を見て、“ナターシャの保護者”たちの仕事は これから始まるのだと察したらしい蘭子は、
「今日は、氷河ちゃんのお店は アタシが開けとくワ」
と言って、氷河の更なる遅刻を許してくれた。
蘭子の店は、社員食堂や保養所等の福利厚生の施設はなくても、子育て支援は完璧。
氷河は おそらく、蘭子の店以上に恵まれた職場に巡り合うことはないだろう。
蘭子が 氷河の店を開けるために氷河たちの家を出ていくと、ナターシャが、
「パパ、マーマ。ドコ行ってたノ……?」
と、瞬たちの顔を見上げてきた。

「ナターシャちゃん……」
空知氏には、『娘を立ち直らせるのは、僕たちの務めです』と大口を叩いてきたが、以前ほどには明るくないナターシャの瞳を見て、それが かなりの難事業だということに、瞬は遅ればせながら気付いたのである。
『いじめられている人を助けてはいけない』と言うことはできず、かといって、『よくやった』と褒めて、ナターシャの無謀を奨励するわけにもいかない。
暴虎馮河は 匹夫の勇。
力を伴わない正義感は、ナターシャ自身のみならず、彼女の周囲の人間にも被害をもたらしかねない、危険なものなのだ。

逡巡する瞬の前で、氷河はナターシャを抱き上げた。
そのままリビングルームのソファに移動した氷河は、そうして ふいに、“公園”の“こ”の字、“いじめっこ”の“い”の字、“正義”の“せ”の字もない話を始めたのである。
ナターシャを膝の上に横に座らせて、氷河は、
「ナターシャ。俺がなぜ 瞬を好きなのか、その訳を知っているか」
と、ナターシャの傷心とは およそ どんな関係もなさそうな質問を、彼の愛娘に投げかけた。

氷河の説明下手と ぶっきらぼうを知っており、慣れてもいるナターシャが、氷河の唐突に戸惑う様子もなく、首をかしげる。
「マーマが綺麗で優しいカラ?」
「瞬が頭が悪くて、諦めが悪いからだ」
氷河の説明下手は、彼が語りたいことの核心部分しか 口にしないからである。
前振りを――核心を語るに至った経緯の説明を、氷河は いつも省略するのだ。

『ナターシャは可愛いから、可愛い女の子が好きな悪者に誘拐されそうになるかもしれない。そんな時には、この防犯ホイッスルを吹いて、ナターシャの身に危険が迫っていることを周囲に知らせろ』と説明すれば わかってもらえるのに、氷河は『ナターシャは可愛い』としか言わない。
『ナターシャは可愛い』とピンクのホイッスルを関連づけることができないナターシャは、氷河の言葉を喜び、肝心の防犯ホイッスルは“パパからもらった宝物”として、彼女のおもちゃ箱に大切にしまってしまうのである。

氷河は、万事が その調子。
だから、その言動に脈絡がなく 唐突――と思われてしまうのである。
そんな氷河の唐突や 飛躍する話には慣れているナターシャも、パパがマーマを好きな理由には、さすがに驚いたようだった。
「マーマはとっても物知りダヨ。星矢お兄ちゃんも紫龍おじちゃんも蘭子ママも、マーマはすごく頭がいいって言うヨ!」
「それは、星矢たちが瞬の頭の悪さを知らないからだ。……いや、星矢たちも 本当は知っているんだが」
「そんなことないヨ! マーマは とっても物知りで、お利口ダヨ」

いつもは、パパの言うことは ほぼ無条件で受け入れ 信じるナターシャが、珍しく異を唱え続けたのは、瞬ほど物知りではなく、『難しいことは瞬に訊け』と言って ナターシャの質問に答えないことの多い人の立場を――主にパパの立場を――守るためだった。
なにしろ、ナターシャが『どうして?』『なんで?』『あれはナニー?』と尋ねたことに答えを与えてくれるのは、9割方が瞬、残りの1割が“氷河その他”だったのだ。
だが、ナターシャの反論に会っても、氷河は彼の主張を翻さなかった。

「瞬は馬鹿だ。人を疑うことをせず、信じて裏切られてばかりいる。もう立派な大人なんだから、少しは 人間の卑怯や弱さを認めて、人を信じることをやめればいいのに、毎回毎回 凝りることなく人を信じて 裏切られて、傷付いて、だが、次にはまた やはり人を信じるんだ」
「信じて裏切られて――? マーマもキズツクことがあるノ? マーマはいつも にこにこ笑ってるヨ」
「瞬がいつも にこにこ笑ってるのは、俺とナターシャのためだ。瞬が ぷんぷんしたり、めそめそしたりしていたら、俺とナターシャが びくびくすることになるからな。瞬が本気で怒ったら、凶暴な恐竜だって、宇宙の彼方に ぶっ飛ばされてしまう」

ナターシャは ほとんど反射的に、『ナターシャは びくびくしたりしないヨ!』と言いそうになったのだが、結局 その言葉を口にはしなかった。
実際のところ、ナターシャは、いつも にこにこしている瞬しか知らない。
ナターシャは、本気で怒った瞬を知らなかったのだ。
だから、『絶対に びくびくしない』と言い切るだけの自信は、ナターシャにも持てなかったのである。

「瞬は今でも、1週間に1回くらいは傷付いているだろう。ナターシャが つらい目に会えば、それで瞬も傷付く。ナターシャが つらい目に会ったことと、ナターシャを つらい目に会わせた人間の心が悲しくて傷付く。瞬は ナターシャのために いつも にこにこしているんだ。瞬は強いから」
「……ウ……ン……」
マーマが馬鹿なことと 傷付くこと、いつも にこにこしていることと 強いことが、ナターシャの中では綺麗に結びつかなかった。
だが、パパがそう言うのなら、そうなのだろう――そうなのかもしれない。
ナターシャは、それでも どこか得心しきれていない気持ちで、氷河に頷いたのである。

「子供だった俺が 子供だった瞬に最初に会った時も、瞬は馬鹿だった」
『瞬は馬鹿』という氷河の言葉を、ナターシャは やはり信じ切ることができずにいるのに、氷河は そうなのだと断言する。
ナターシャは、不思議なものを見る目で、氷河の顔を見詰めることになった。
「俺が瞬と初めて会ったのは、俺のマーマが死んだ直後だった。俺は、俺のマーマを助けられなかった自分が大嫌いで、マーマを助けてくれなかった大人たちを憎んで、人間全部が嫌いになっていた。瞬は、そんな俺を元気づけようと 優しくしてくれたんだが、どんなに 瞬が優しくしてくれても、俺は瞬を鬱陶しがって、瞬を追い払ってばかりいたんだ」
「ウソ……」
マーマを鬱陶がって追い払うパパ。
それは、今の氷河をしか知らないナターシャには、到底 想像できないものだった。

瞬から離れない氷河を、『静電気で くっついて離れない糸クズ』だの『地面に貼りついて剥がれない濡れ落ち葉』だのと言って、星矢は いつも からかっている。
『氷河に用がある時に、氷河を呼んでも 面倒がって来ないことが多いから、瞬を呼ぶんだ』と、紫龍が言っているのを聞いたこともあった。
ナターシャ自身、マーマが側にいる時と いない時では、パパの気持ちの落ち着き具合いが違うことを、常に感じていた。

マーマを鬱陶しがって追い払うパパの姿など、想像を絶している。
想像できなくて――ナターシャは絶句した。
そして、だが、それほどに――パパは パパのマーマを大切に思っていたのだということだけは、ナターシャにもわかったのである。

「俺に構うなと言って、瞬を突き放しながら、俺は そのたびに怯えていた。恐がっていたんだ。本当に瞬が俺に構ってくれなくなることを。そうなったら、俺は 今度こそ 本当に誰も信じられなくなって、俺を気に掛けてくれる人は誰もいなくなるだろう。そうして、俺は、また 一人ぽっちになってしまうんだ」
「パパ、かわいそうダヨ……」
「俺も馬鹿だったんだ。だが、瞬はもっと馬鹿で、俺に何度 突き放されても、何度 怒鳴りつけられても、俺に優しくしてくれた。そうして、俺は結局、瞬に負けてしまった。瞬に負けて、瞬を好きになってしまった」
「ワア……」

パパが やっと自分の知っているパパになってくれた。
ナターシャは そう思ったのである。
嬉しい気持ちで、そう思った。
マーマを大好きなパパ。
それがナターシャの知っているパパだった。
では、子供だったパパは、子供だったマーマに負けて初めて、今のパパになってくれたのだ。
「パパがマーマに負けてヨカッタヨ!」
「まったくだ」

安堵して笑顔になったナターシャに、氷河が いつも通りの真面目な(?)顔で 頷き返す。
真面目な(真面目に見える)顔で、真面目な(真面目に聞こえる)声で、氷河は更に言葉を続けた。
「人は、強くなければ、人に優しくできないんだ。瞬は 子供の頃から強かったし、優しかった。そして、だから、瞬は今も綺麗だ。ナターシャは、瞬を見習わなければならない。裏切られて、傷付いて、それで また傷付くことを恐れて、うじうじして公園に遊びに行かずにいたら、ナターシャは運動不足で ぶくぶく太るだろう。そうなれば、ナターシャは、俺と瞬が買ってやった洋服が着られなくなる」
「エ……」

氷河の唐突や 話の飛躍には慣れてはいたが――パパは急に何を言い出したのだろう? と、ナターシャは思った。
氷河の唐突や 話の飛躍に慣れているつもりではいたが――氷河は何を言い出したのか――と、瞬も思った。
氷河は、しかし、委細構わず、彼の話したいこと(だけ)を 話し続ける。






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