The Stranger






その男が初めて店にやってきた時、氷河は彼を バーに慣れていない男なのだと思った。
より正確に言うなら、最初の10秒間は 場慣れしている男だと思い、11秒目から それは完全な見立て違いだったと思い直した。
見た目(身体や その身体を覆う服装、所作)は30前後に見えるが、表情は 40過ぎの――へたをすると、50を過ぎた中年男のそれに見える。
世の中や そこに生きている大人たちが 教科書通りに清廉潔白ではないことを知って 擦れ始めた高校生が 一足飛びに50男になったなら、こんなふうになるのではないか。
その客は、そんな様子をしていた。

バーの扉は、基本的に 重く厚い。
店の外と内は隔絶された別世界だということを、客に自覚してもらうために。
客が外の世界の しがらみを忘れられるように。
自身の肩書きや立場、年齢や名前すら忘れて、素の自分に向き合えるように。
それは、氷河の店のドアも例外ではない。
ある客が その扉を気軽に躊躇なく開けることができたなら、彼(彼女)は、バーとは そういう場所なのだということを知っている――ということになる。
そして、その客は、初めての来店であるにもかかわらず、氷河の店の重く厚いドアを気軽に開けたのだ。
当然 そういう客なのだと、氷河は思った。
――のだが。

その客は、氷河を見て戸惑ったようだった。
戸惑って、ドアの前に突っ立ったまま、次の一歩を踏み出せずにいる。
どこから どう見ても外国人。愛想は悪く、笑顔の『いらっしゃいませ』もないバーテンダー。
初めての客なら、戸惑いを覚えても それは奇異なことではない。
おそらく 日本語が通じないことを懸念したのだろうと察し、その懸念を払拭するために、氷河は彼に日本語で着席を促した。
「カウンターでもテーブルでも、好きなところに座っていい。……連れがいないなら、カウンターの方がいいか」
「いや、あの……」
ドアの前で、客が 僅かに身じろぎをする。

バーテンダーのぶっきらぼうな案内に 気後れを生じたのかと思ったのだが、そうでもないようだった。
普通の人間なら 目を合わせることすら躊躇する氷河の顔を、彼は まじまじと凝視した。
それでいて 何も見ていないような印象を与える奇妙な眼差し。奇妙な客。
氷河は 彼の視力が極端に弱い可能性を考えた。
コンタクトレンズやメガネ等、視力矯正器具があれば日常生活に支障は出ないが、今日は たまたま装着を忘れたか、装着できない事情があった。
そのため、この店のバーテンダーの目付きの鋭さを目視できず、彼は恐がることもできずにいるのだと。
しかし、そうでもないらしい。
彼は 普通に目は見えているようだった。
テレビやパソコンのモニターに映っている凶悪指名手配犯の写真を見るような視線を 氷河の上に据えたまま、その客は カウンター席に着いた。

「ロブ・ロイを」
バーテンダーに何も訊かず、メニューの有無も問わずに オーダーしてくるところを見ると、彼はバー初心者ではなく、自分の好む酒もわかっているらしい。
氷河がオーダーされたものを作り始めると、彼はやっと――何かを諦めたような溜め息をついて、氷河への凝視を解いた。
だが、それで 氷河を見るのを やめたわけではなく、今度は 最初の不躾な凝視を忘れたかのように、ちらちらと氷河の顔を盗み見ることを始める。
バックヤードの整理をしていたシュラがカウンターに入った時も、客は、氷河へのそれと全く同じ態度を示した。
すなわち、過剰に驚き、指名手配犯を見付けた刑事のように 不躾に凝視し、その後、刑事に捕まった犯罪者のように おどおどした様子で、この店のバイトの男を盗み見ることを始めた。

数分後、氷河が ロブ・ロイの入ったカクテルグラスを彼の前に置いた時には、彼は顔面蒼白になっていた。
アルコール依存症を疑いそうになるほど、グラスにのばされた手が震えている。
悩みや不満を抱えてバーにやってくる客は少なくないが、店に入った途端、バーテンダーを見た途端、彼の中に悩み(むしろ 恐怖?)が生まれたのだとは考えにくい。
だが、そうとしか考えられない彼の様子。
氷河は気付かれぬよう、客の観察を続けたのだが、彼の感情の揺れは いつまでも治まることはなく、逆に大きく強くなる一方だった。






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