「バーというのは、本来、大人が――真の意味での大人が、日常のしがらみを忘れて、あるいは 忘れるために、もしくは 日常のあれこれを思索しながら、静かに美味い酒をたしなむための場所だ。“静かに”だ! “静かに”というのが大事なんだ! ゆえに、バーでは、騒がしい客を店から追い出すことが許されている。そこが、バーと居酒屋の決定的な違いだ。バーと馬鹿騒ぎほど相容れないものはない。バーとカーニバルなんて、水と油! 犬と猿! 倶に天を戴かず! すなわち、天不倶戴天の敵同士だ!」 氷河は 全く大人げなく、到底“静か”とは言い難い大音声をリビングルームに響かせた。 瞬が、こちらは静かに、荒ぶる氷河を 落ち着かせようとする。 「氷河の言いたいことは わかるけど、店のオーナーが 自分の店をカーニバル仕様にしたいと言っているんだから……」 自分の店をどうするか。 その決定権は 店の所有者にあり、被雇用者である氷河が オーナーである蘭子に異議を唱えるわけにはいかないだろう――その権利は、氷河にはない。 自分が蘭子に文句を言える立場にないことは、氷河も わかっているようだった。 それでも、せめて、蘭子の指示に従うことが不本意だという気持ちを表明することだけはしたいから、彼は(自宅で)騒がしく わめき立てているのだ。 「ママは、俺の店をママのサンバチームの準備室 兼 寄合い所に使おうとしているんだ。それなら、浅草のホテルの会議室なり、レンタルスペースなりを確保すればいいだろう。なぜ、俺の店を使う! 俺は、ママの依頼で イベント合わせの特製カクテルまで考案したんだぞ。なのに――」 「カーニバルをイメージしたカクテル? 素敵だね。ベースは、やっぱりブラジルっぽく ラム酒?」 「カシャッサだ。カーニバルをイメージしたカクテルなら、俺も文句は言わん。百歩譲って、サンバカーニバルをイメージしたカクテルでも我慢しよう。だが、浅草サンバカーニバルだぞ! 俺の考案したカクテルが、“浅草サンバカーニバル”なんて、おちゃらけた名前で 客に供されるのかと思うと、恥ずかしくて 顔から火が出る思いだ。それだけでも十分な拷問だというのに、サンバカーニバル当日は、日中も店を開けて、派手に客を呼び込むつもりだと言っている。カーニバル当日は、朝9時開店、夜2時閉店。いつもより作業の多い開店準備に2時間、閉店後の片付けに2時間かかったとして、朝7時から翌朝4時まで、21時間 ぶっ通し。俺に死ねというのか!」 「アテナの聖闘士が何を言っているの。コンビニは24時間営業だよ」 「コンビニはシフト制を採っているだろう。俺の店には、バーテンダーは俺一人しかいないんだぞ。他には、掃除もまともにできないバイトが一人いるきりだ。これは明確な労働基準法違反だ!」 「蘭子さんは、カーニバルの翌日から、お店は3連休にしていいって言ってくださってるんでしょう?」 「ママは、俺を俺の店から追い払って、その間に、サンバカーニバルの自分の勇姿の写真をバネルにして、店中に飾るつもりなんだ。俺は、そんなことは絶対に許さないぞ! 俺の店の雰囲気をぶち壊しにされてたまるか!」 オーナーの意思には反するが、氷河は氷河なりに彼が預かっている店を 必至に守ろうとしている――のだ。 無茶を言っているのは蘭子の方だということがわかるからこそ、瞬も氷河に (あまり)厳しいことは言えなかった。 事の起こりは1ヶ月前。 蘭子が、毎年 8月最終土曜日に開催される浅草サンバカーニバルのパレードコンテストへの参加を決めたことだった。 計画自体は1年前から水面下で ひそかに進展していたらしいのだが、コンテストのS2リーグにチーム参加するのに必要な規定メンバー数が集まったので、その日、蘭子は正式にパレードコンテストへの参加申し込みを済ませたらしい。 “動くオペラ”と言われるサンバカーニバルは、チームテーマを決め、華やかなコスチュームやダンスで そのテーマを表現。そのパフォーマンスの内容を審査して 優劣を競う、立派な勝負事である。 蘭子の設定したチームテーマは『愛の平等』。 LBGTQは言うに及ばず、ストレート、無性愛者、異性装嗜好者、いかなる性的指向者も いかなる性的嗜好の持ち主も、愛の前には平等であるという主張を、ふさわしい衣装とダンスで 社会に訴えるために、蘭子はパレードコンテストへの参加を決意したらしい。 そう、蘭子は言っていた。 蘭子はただ お祭り騒ぎが好きで、かつ、“同じ阿呆なら踊らにゃ損”だと思っているだけなのだ――と、げっそりした顔で 氷河は言うが、そんな氷河とは対照的に、蘭子は、燃えに燃えていた。 「お店の雰囲気を守りたいっていう氷河の気持ちは とてもよくわかるけど、サンバカーニバルは、ナターシャちゃんも楽しみにしているんだよ」 「……」 瞬に その事実を告げられた氷河が、瞬時に静かになる。 氷河が、蘭子のいないところで不平を言っているのは、彼がその立場上、蘭子に面と向かって彼女の計画に反対できないからではない。 実は、そうではない。 もちろん、氷河自身は、サンバカーニバルなどというものに 全く興味はないし、自分の店をカーニバル仕様に変えられることも 大いに不本意である。 だが、氷河には、本当に蘭子に計画を取りやめられてしまっては困る――という事情があった。 ナターシャが、それを とても楽しみにしているから。 蘭子の計画が中止になれば、ナターシャは がっかりするだろう。 それは、彼の店が能天気なカーニバル仕様になることより 避けなければならないことだったのだ。 |