瞬は若く、美しく、澄んだ瞳の持ち主だった。
瞬の美しさは、世俗的な欲を持っていなかった氷河の母のそれとは 違う種類の美しさで、二人の美しさの違いは 緊張感の有無にあるようだった。
瞬の美しさは、張り詰めていたのである。
氷河は、その美しさに惹かれずにはいられなかった。

アルカディアに入ることが許された瞬は、当然、アルカディアの住人になる資格を持つ。
もう故国に帰らなければならないと瞬が言い出した日、氷河は 瞬の好きなオリーブの木の下で、この地に留まってくれと、瞬に頼んだのである。
真面目に、真剣に、心の底から そうなることを望んで、頼んだ。
だが、瞬の答えは、
「それはできない」
だった。

「僕は、この世界の すべての人々が 平和で幸福に暮らせるようになればいいと思っている。アルカディアだけでなく、この世界全体が アルカディアのようになることを願っている。これは政治的な――世俗的な欲でしょう? 僕は、アルカディアの住人にはなれないの」
「その願いは、アルカディアにいても願い続けることはできるだろう。願うだけなら――」
「僕は、願うだけじゃなく、そのために自分にできることをしたい」
「……」
氷河より年若く、氷河より小さくて華奢な瞬の、断固とした決意。
“愛”以外に求めるもののない氷河には、瞬の心が理解できなかった。
愛しているのに、理解できなかった。

「僕は、地上の楽園の住人にはなれない。だから、氷河が……」
「だから、俺が?」
「……ううん。何でもない。氷河は、このアルカディアの住人だね……」
なぜ そんな、改めて言及するまでもない事実を、瞬はわざわざ語るのか。
なぜ、こんなにも悲しそうに語るのか。
その時も、氷河は“わからない”顔をした。
他にできることがなかったのだ。
氷河には、本当に、瞬の心が わからなかった。
氷河が“わからない”ことを、瞬は 悲しんでいるようだったが、氷河がわからないことを、瞬は責めるようなことはしなかった。

「僕は、氷河に、いつまでも幸せに生きていてほしいよ。そのためになら、何でもできると思う。もし……もし、氷河がアルカディアを出ることがあったら、その時はエティオピアに来て。エティオピアの民の誰かに『アンドロメダを探している』と言えば、すぐに 僕の居場所はわかるから」
アルカディアを出る日、瞬はそう言い残して、神々の結界の向こう側に去っていった。
入ることは難しいが、出ることは容易な、嘆きの壁の向こう側に。
瞬を壁のこちら側に引きとめることができなかった氷河は、瞬の姿が結界の向こうに消えていくのを、黙って見送ることしかできなかったのである。


氷河は、アルカディアの住人――根っからのアルカディアの住人だった。
だから、世俗的な欲を持てない。
持たないのではなく、持てない。
財を築くことができず、権力を得る術も持たない。
外の世界で“暮らす術”“生きる術”さえ、氷河は持っていなかった。
当然、氷河はアルカディアを出ることはできない。
だが――。

瞬がアルカディアを去って まもなく、氷河は、アルカディアで暮らす術、アルカディアで生きる術すら失ってしまっている自分に気付いたのである。
瞬が 側にいないと、生きていられない自分に。
瞬がいなくなったアルカディアで 生き続けることに、氷河は10日と耐えることができなかった。
瞬がアルカディアを去って10日目の夜、生きるために、氷河はアルカディアを出ることを決意した。
そうして、瞬がアルカディアを去って11日目の朝、氷河はアルカディアを出た――生まれて初めて出た――のである。






【next】