瞬のマンションは、氷河とナターシャが暮らすマンションから歩いて5分ほどの場所にある。 もとい、瞬のマンションから徒歩5分の場所に 氷河のマンションがある――と言うのが正しいだろう。 瞬は 職場への交通の便を考えて 光が丘に居を構えたが、氷河は そうではない。 押上の店に通うのに、光が丘は決して便利な場所ではない。 氷河が 瞬の住まいの近くに 自身の住まいを定めたのは、仕事よりプライベートを優先してのこと。 それはナターシャを引き取る前のことだったが、ナターシャがやってきてからは、彼女の養育の面で、二人の住まいは都合の良い環境になっていた。 夜勤の時以外は、帰宅途中で瞬が氷河の家に寄ってナターシャを受け取り、出勤する氷河を二人で見送る。 徒歩5分のところにある二つの家は、それが無理なくできる“ご近所さん”なのだ。 ナターシャは、パジャマや着替えや食器の一部を瞬の家に置いていた。 ナターシャは、 「パパはナターシャといっぱい遊んでくれるから、パパと一緒にいるのは大好きだけど、瞬ちゃんは ナターシャといっぱい お話してくれるから、ナターシャは 瞬ちゃんと一緒にいるのも大好き」 と言って、自宅が二つあるような生活を 負担には思わず、むしろ 二つある家を行ったり来たりする生活を楽しんでくれているようだった。 口数の少ない氷河が相手では、“会話が弾む”ということは滅多にないのだろう。 その反動もあるのか、瞬の家にいる時のナターシャは、とても お喋りである。 ナターシャは、お喋りが過ぎるとパパに嫌われると思い込んでいる節もあった。 「パパは そう言ってたケド、パパ、なんだか寂しそうナノ。悲しそうナノ。つらそうナノ。ナターシャが 『おなか痛いの?』って訊いても、そんなことないって言うノ」 雲一片ない青空のように安心できるまで、幾度も繰り返し 氷河に尋ねることのできない案件は、ナターシャは 瞬に持ち掛けてくる。 ナターシャは、へたな大人より はるかに、対峙する相手の感情の動きを読む技に長けていた。 だから 瞬も、ナターシャからの相談を いい加減にごまかすことはできない。 「氷河は、ナターシャちゃんのパパになれたことを とっても喜んでるよ。ナターシャちゃんを世界一 幸せな女の子にするんだって、張り切ってる。氷河とナターシャちゃんは ずっと一緒。氷河もそう言ってたでしょう? 僕は氷河をよく知ってる。氷河は絶対に嘘をつかない。氷河は、嘘をつくくらいなら、何も喋らないんだ。氷河が ナターシャちゃんと ずっと一緒にいるって言っているのなら、氷河は必ず そうするんだよ」 瞬自身が“そうである”と確信している言葉を聞いても、ナターシャは得心した様子を見せてくれなかった。 一層 案じ顔になり、何やら考え込んでいる素振りを見せる。 「アノネ。パパは、『ナターシャがいると大変ナノ?』って訊くと、ナターシャのこと、可愛いって言ってくれるの」 「うん。ナターシャちゃんは とっても可愛いからね。嘘じゃなくて、本当のことでしょう?」 「パパは『大変じゃない』って、言わないノ」 「え……」 ナターシャは、氷河の その答えが嘘をつかないためのごまかしだと気付き、案じているのだ。 ナターシャは頭がいい。 否、あるいは、『子供は皆、頭がいい』というべきなのかもしれなかった。 ただし、その“頭のよさ”には“自分の好きなものに対して”という条件がつく。 大好きだから、いつも見ている。 だから、気付く。 そして、真剣に考える。 人間の無知、無思慮、無分別は、好きでないものに対して発動される能力なのだ、おそらく。 ナターシャは パパが大好きだから、子供は わからないままでいた方がいい事柄にまで、思いが至ってしまうのだろう。 瞬は、そんな彼女に対して、真摯に対応しなければならなかった。 「ナターシャちゃんみたいに小さな女の子を育てるのは、氷河でなくても、誰だって大変なんだよ。ナターシャちゃんみたいに 可愛い女の子は 特に、とってもとっても大切に育てなきゃならないから。でも、大変なのも平気に思えるくらい、氷河はナターシャちゃんのことを大好きなんだよ」 「ナターシャも、パパが大好きだヨ。ずっとパパと一緒にいたいヨ」 「じゃあ、ナターシャちゃんは、氷河に『大変?』って訊かないで。ナターシャちゃんのことを好きかどうかって訊いて。氷河は喜んで、ナターシャちゃんのことが大好きだって答えるから」 「『大変なの?』って訊いちゃ駄目ナノ?」 「駄目なわけじゃないけど、氷河は『大変だ』って言いたくないんだよ。大変って言うより、ナターシャちゃんのことを『大好きだ』って言いたいの」 「ウン」 ナターシャは、瞬に頷き返してきたが、それで 彼女の懸念や疑念が すべて消え去ったわけではないようだった。 パパとの暮らしを始めて まもない彼女の前には、懸案事項が山積みになっているらしい。 「今日、パパと公園に行ったら、どこかの おばちゃんたちが話してたの。おばちゃんたちの おうちのパパたちが 子供のセワを全然しないって」 「よその おうちのパパたちは、お仕事が忙しいのかもしれないね」 「おばちゃんたちも そう言ってた。シゴトシゴトって言って逃げるばっかりデ、全然 子供のセワをしないって。子供はパパとママの二人で育てるものなのにッテ」 そんな話を、子供の耳に入る場所で 声高に話す母親たちの意図はどこにあるのか。 父親の無関心を我が子に気付かせるのは、あまり よいことではないだろうに。 そんなことを考えていた瞬は、まもなく、そんなことを悠長に(?)考えている場合ではないことに気付かされたのである。 ナターシャの、 「それで、ナターシャ、わかったんダヨ。ナターシャがいても、パパが寂しそうなのは、ナターシャのマーマがいないからだッテ!」 という言葉によって。 「えっ」 よそのうちの おばちゃんたちの会話で ナターシャが気付いたのは、パパに遊んでもらえる自分の幸福ではなく、マーマの不在。 そして、マーマの不在が(子供であるナターシャではなく)パパを寂しい気持ちにさせている可能性だったのだ。 その可能性に気付いたナターシャは、いかなる逡巡もなく 即座に決意したのだろう。 大好きなパパを寂しいパパでなくすために、自分にできる限りのことをしようと。 ナターシャは、瞬に高らかに力強く宣言した。 「瞬ちゃん。ナターシャは、ナターシャのマーマを探すことにしたヨ!」 「マ……マーマを探すって、どうやって……」 「そんなの、簡単ダヨ! 公園とか、お店とか、いろんなとこで、パパとナターシャと仲良くなってくれる人を探して、『ナターシャのマーマになってください』って、お願いするんダヨ!」 『そんなの簡単』とナターシャは言うが、多分、それは簡単なことではない。 万一、簡単にマーマが見付かったとしても、そのマーマが よいマーマになってくれる確率は 限りなく低い。 それ以前に、ナターシャがマーマを探そうとしていることを知ったら、氷河が どう思うことか。 悲嘆するのか、激怒するのか。 付き合いの長い瞬にも、こればかりは予測不可能だった。 とにかく、ナターシャの とんでもない思いつきを止めなければならない。 “マーマ”は 氷河にとって特別な存在。 公園や お店で 簡単に見付かっていいものではないのだ。 瞬は、ナターシャを思いとどまらせなければならなかった。 「ナターシャちゃん。急にそんなことをお願いされたら、みんな びっくりするよ」 「そんなことないヨ。みんな、喜ぶヨ。ナターシャのパパは すごくカッコいいモン」 「それはそうだけど……でもね、ナターシャちゃん」 瞬が 自分の計画に反対なことに気付いたナターシャが、ふいに その瞳を暗くする。 素敵な計画に張り切って明るく輝いていたナターシャの笑顔は、その輝きを失い始めていた。 「……パパがコブつきだから、誰もナターシャのマーマになってくれないの……?」 消え入りそうに小さな声で そう言って、ナターシャが唇を噛みしめる。 「ナターシャちゃん……」 ナターシャは どこで そんな言葉を覚えてきたのか。 それが よくない言葉だということは、ナターシャも感じているのだろう。 いつも元気で はきはきした話し方をするナターシャの声が、淀み くぐもっている。 「誰が そんなことを言ったの!」 思わず 声を荒げてしまった瞬の前で、ナターシャが俯く。 瞬は 慌てて、ナターシャが腰掛けていた長ソファの横に移動し、ナターシャの肩を抱き寄せた。 「そんなことはないよ。ナターシャちゃんは とっても可愛いから、ナターシャちゃんのマーマになりたい人は いっぱいいる。だけど、氷河が――」 「パパが駄目なの? そんなことないヨネ!」 「もちろん、そんなことはないけど……」 ナターシャのパパは最高のパパ。 そう信じている瞳で パパの仲間を見上げ見詰めてくるナターシャに、どう言えば わかってもらえるのだろう。 氷河が ナターシャのマーマを求めていないことを。 瞬は 咄嗟に適当な言葉を思いつけなかった。 しばし 悩んでから、迷いの残る唇を開く。 「あ……あのね。え、と、そうだ。氷河が駄目なんじゃなくて、逆なの。氷河がカッコよすぎるから駄目なんだよ。氷河がカッコよすぎるから、みんなが 自分は氷河に釣り合わないって思うんだよ」 「ツリアワナイ……?」 「そうだよ、釣り合わない。薔薇の花でブーケを作る時、タンポポと一緒にする人はいない。タンポポは お花が小さいし、薔薇と一緒にすると、バラに隠れて、せっかくの可愛い花が見えなくなっちゃうでしょう?」 「ウン」 「だから、薔薇でブーケを作る時は、バラに隠れてしまうような花じゃなく、薔薇と同じように華やかな花を使う。ガーベラやカトレアや――いちばん多いのは、種類の違う薔薇で作るブーケなんだよ」 「ン……ウン」 薔薇とタンポポのブーケを思い描いて、ナターシャは得心してくれたらしい。 ナターシャは分別顔で、頷いた。 「ナターシャも、昨日 公園でお喋りしてた おばちゃんたちみたいなマーマはいやダヨ。ナターシャは、瞬ちゃんみたいに、綺麗で優しいマーマがいいヨ。それなら、パパも嬉しいと思ウ」 「そ……そうだね」 うっかり 賛同の意を示してしまったのが運の尽き。 瞬は、次の日曜日、氷河に内緒で、ナターシャと二人でナターシャのマーマを探す約束をさせられてしまったのだった。 |