小さなポシェットだけを肩に掛け、ナターシャが たった一人で瞬の部屋にやってきたのは、二人でスカイツリーにマーマ探しに行く約束をした日の前日のことだった。
どうやら、マーマ探しの計画が 氷河にばれてしまったらしい。
そして、氷河は、その計画の中止を ナターシャに命じたらしかった。
瞬の操作を見ているうちに瞬のマンションのエントランスゲートのパスワードを憶えてしまっていたのだろうナターシャは、瞬の部屋のある階まで一人で上がってきて、瞬の部屋の中に入れてもらうなり、半分 泣きながら、パパの横暴を瞬に訴え始めた。

「パパは ナターシャに、マーマなんか探しちゃダメだって怒鳴ったノ! そんなことしちゃ絶対ダメだって、ナターシャを叱ったノ! ナターシャは、パパのために頑張ってるノニ、パパは とってもオーボーなノ! ダカラ、ナターシャ、イエデして来たノ!」
「い……家出 !? 」
いくら 徒歩5分の ご近所さんといっても、さすがに幼児の家出はまずいだろう。
しかも、氷河は そろそろ店に行く時刻である。
慌てる瞬に、だが ナターシャは きっぱりと言い切ってくれた。

「ナターシャは、パパが寂しそうだったから、パパを寂しくないパパにするために頑張ったノニ、パパ ひどい!」
「う……うん、氷河は よくなかったね。でも、ナターシャちゃん……」
「ナターシャ、もう パパのとこに帰らない。パパには、瞬ちゃんちの子になるって 言ってきた!」
「え……」
では、氷河は、ナターシャの家出も 家出先も知っているのだ。
氷河のことだから、家出宣言して家を出たナターシャが 仲間のマンションに辿り着き、エントランスゲートを通り抜けるところまでは確認もしただろう。
ナターシャの意思を尊重して(?)、ナターシャに気付かれぬよう、彼女のあとをつけて見守っている水瓶座の黄金聖闘士の姿を想像し、瞬は小さく吹き出してしまったのである。

「僕の家の? 素敵だね。そうできたらいいね」
「ウン! ナターシャ、とっても いい子にできるヨ。ダカラ、瞬ちゃんちの子にして。ナターシャ、パパのとこには帰らないって決めたノ!」
瞳や口許に固い決意の色を漂わせて、ナターシャは決然と言う。

『“とっても いい子”は そもそも家出などしない』
そんな詰まらない正論を言ったところで、パパのために頑張った いい子のナターシャは、聞く耳を持たないだろう。
どのみち、今週はずっと日勤で、夜間はナターシャを預かるつもりでいた。
氷河が承知しているのなら、家出決行中のナターシャを受け入れてしまっても、問題はないはず。
氷河には あとでメッセージを入れることにして、瞬は 小さな家出娘を そのまま(いつも通り)預かることにしたのである。
実際、ナターシャが家出中だということを除けば、その夜は まさに“いつも通り”の何の変哲もない夜だった。


「ナターシャ、ニンジン嫌い。ピーマンも嫌い。パパは、嫌いなら食べなくていいって言うヨ」
「んー。でもね。ニンジンやピーマンには 目や肌を綺麗にする栄養がいっぱいあって、ニンジンやピーマンを食べると、ナターシャちゃんが可愛くなるんだよ。ナターシャちゃんが可愛くなったら、氷河が喜ぶよ」
「……」
好き嫌いの多い子供は“とっても いい子”ではないだろうが、『ナターシャちゃんが可愛くなったら、氷河が喜ぶ』と言われて、決死の覚悟でニンジンのグラッセを口に運ぶナターシャは“愛すべき子供”だろう。
幼い子供のおやつや食事に 平気で野菜スティックを出すようなパパに育てられていれば、好き嫌いが多くなるのも致し方ない。
それは、ナターシャのせいではないのだ。

「あれ。ニンジンなのにオイシイ……」
「ナターシャちゃんが 美味しく食べられるように、甘く煮てあるからね」
「ワア」
ちょっとした工夫で 嫌いだったニンジンをぱくぱく食べ始めたナターシャを見ていると、やはり彼女にはマーマが必要なのかもしれないと思う。
だが、ナターシャがマーマを手に入れるためには、あまりにも多くの障害を乗り越えなければならないのだ。
せめて 氷河がアテナの聖闘士でなかったら、それは さほど難しいことではないのかもしれなかったが。


瞬の寝室にあるチェストのいちばん下のひきだしには、ナターシャのパジャマや遊び着が入っている。
“とっても いい子”のナターシャは、もちろん 一人で パジャマへの お着替えができる。

そのチェストの横にある“ナターシャの本棚”から、ナターシャが選んだ“おやすみの絵本”は、今夜はメーテルリンクの『青い鳥』。
チルチルとミチルの兄妹が、夢の世界に 幸福の青い鳥を探す旅に出て、見付けられず、最後に目覚めた自分の家で、探していたものを見付ける物語である。
ナターシャに絵本を読んでやっている間 ずっと、瞬は、『自分の幸福が どこにあるのかを、ナターシャが思い出してくれればいいのに』と思っていたのだが、絵本の最後のページに描かれている青い鳥の絵を見たナターシャの感想は、
「デモ、ナターシャのマーマは、ナターシャが探しに行かないと見付からないヨ」
だった。

「ナターシャちゃんのマーマは ナターシャちゃんが探しに行かなきゃ見付からないかもしれないけど、ナターシャちゃんのお気に入りの お洋服は全部、氷河とナターシャちゃんのおうちにあるでしょう? 明日、氷河がナターシャちゃんを迎えに来たら、氷河と一緒に おうちに帰ることにしようよ。ナターシャちゃんがいないと、氷河は寂しくて泣いちゃうよ?」
「エ……」

“マーマがいないから、パパは寂しいのだ”という考えしか 頭になかったナターシャは、“ナターシャがいないせいで、氷河が寂しい思いをする”事態を考えたことがなかったらしい。
“一人ぽっちのパパ”の姿を脳裏に思い描いてしまったのか、ナターシャは つらそうに眉を歪めた。
ベッドの脇に腰を下ろしている瞬の顔を上目使いに見上げ、唇を噛みしめる。
これで ナターシャも折れてくれるかと、瞬が思った途端、
「パ……パパが ナターシャにゴメンナサイしなきゃ、ナターシャはパパの おうちには帰らないヨ!」
ナターシャは そう言って、アッパーシーツごと毛布を頭まで引き上げ、顔を隠してしまった。

すっかり毛布に覆われて見えなくなってしまったナターシャが、今 どんな顔をしているのかが、瞬には 手を取るように わかったのである。
“寂しそうなパパ”を見ているのが悲しいナターシャは、自分の不在のせいで パパが寂しい思いをすることに耐えられまい。
パパのために――ナターシャは 明日には(いつも通り)パパの許に帰っていくだろう。
そうなって欲しいし、そうなるべきだということも わかっているのに――瞬は ひどく寂しい気持ちになってしまったのである。






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