「で、無事に引越しも完了したというわけか。声を掛けてくれれば、手伝いに行ったのに」
「本がぎっしり詰まっている本棚を そのまま片手で持てる人間が、徒歩5分のところに引越すのに、手伝いは不要だよ」
瞬が紫龍に事の次第を報告したのは、すべてが丸く収まってからだった。

氷河が一人で 幼い少女を育てることなど できるわけがないのだから、二人が別れる必要はないし、むしろ一緒にいる必要だけがあると、幾度も言ってくれていた紫龍。
そして、結局は、彼の言っていた通りのところに すべてがきっちり収まってしまったのだ。
紫龍に、引越の完了報告をする瞬の顔には、気恥ずかしさでできた微苦笑が浮かんでいた。

「ありがとう、紫龍。ごめんね。心配かけて」
「俺は何もしていない」
「氷河が一人でナターシャちゃんを育てるのは無理だって、わざとナターシャちゃんのいるところで言ってくれたでしょう」
「丁と出るか半と出るか、どう転ぶか わからなかったが――いや、俺は何もしていないことにしてくれ」
「そうはいかないよ。僕は――僕たちは、紫龍のおかげで……」
「俺は何もしていないことにしてくれ。一輝には」
「……」

紫龍が自身の手柄を誇らないのは、彼らしい謙虚や遠慮によるものではなく、保身(我と我が身を守りたいという切実な事情)ゆえだったらしい。
ナターシャは今では、起床時に『おはよう』を言うように自然に、食事の前に『いただきます』を言うように自然に、瞬を『マーマ』と呼ぶようになっている。
ナターシャは、彼女のマーマを大いに気に入り、非常に満足しているようだった。
ナターシャに不満や不足がないのであれば 他にどんな問題もないと、瞬は思っていたのだが。

(兄さん……)
そういう問題があったことを思い出し、瞬の笑顔は 思い切り引きつった。






Fin.






【menu】