それが萌え絵か否かという判断は ともかく。
その絵が売れるのかどうか、買う人間がいるのかどうかという問題は さておき。
その絵を売ってもいいのかどうかは、アテナの判断を仰ぎ、アテナの許可を得なければならないだろう。
なにしろ、問題の絵は、アテナの治国である聖域の内から発見されたのだから。
その判断を仰ぐため、青銅聖闘士たちは発掘品を持って、アテナの許に向かったのである。
宴会道具が仕舞われていた物置から発掘された埋蔵文化財の報告を受けた沙織は、星矢も驚くほど 古代ギリシャの萌え絵に 色めき立った。

「アペレスですって !? 」
星矢は聞いたこともない画家の名に、沙織が瞳を輝かせる。
「知ってる人かよ?」
「知ってるも何も――アペレスというのは、古代ギリシャ随一と言われる画家の名よ。マケドニアのアレクサンドロス大王や その父親のフィリッポス2世の時代に活躍した画家。大プリニウスの『博物誌』に、“古代ギリシャ最高の画家”“古代ギリシャ随一の画家”と言葉を尽くした大絶賛の記述があるわ。記録に残っているだけで、作品は一つも残っていないのだけど」
「アレクサンドロス大王の時代の画家の絵ということはないでしょう。色が ほとんど落ちていない。2400年も前に描かれた絵にしては 保存状態が良すぎる」
という紫龍の指摘を、
「アペレスは、絵の保存と色を和らげることの両方に役立つ黒ワニスを発明した人物なの。その製法を、彼は自分だけの秘密にしていたそうよ。アペレスのものなら、保存状態がいいのは当然ね」
沙織は、あっさり退けた。

せっかく画期的な絵の保存方法を発明したのに、肝心の絵が1枚も残っていないというのは、どういう皮肉なのか。
作品が1点も残っていないのでは、青銅聖闘士たちが 画家の名を聞いたことがないのも道理である。
“古代ギリシャ随一の画家”といっても、作品が残っていないのでは、その評価が正当なものかどうかの判断すらできない。

沙織の説明によると。
“古代ギリシャ随一の画家”アペレスは、コス島の生まれ。
エフェソスやシキュオン等、ギリシャ各地で画業を学び、そのため、ドーリアの力強さとイオニアの優雅さを結びつけた絵を描くことができるようになった――らしい。
マケドニアのフィリッポス2世の宮廷画家になり、フィリッポス2世の息子アレクサンドロス大王に特に重用された。
アペレスは風景や動物も描いたが、最も得意とするのは 人物の肖像。
アレクサンドロス大王は一人しかいないが、アペレスが描く大王の肖像画があれば、帝国内に 多くの大王が存在することになる。
アレクサンドロス大王は カリスマ性に満ちた人物だったが、彼が彼の存在を より多くの人々に知らしめるには、アペレスの才能が必要だった。
アペレスは、アレクサンドロス大王の宣伝広報係でもあったのである。
アレクサンドロス大王は、男性美を写実的に描写するアペレスの天才を見抜き、アペレス以外の者が 自分の肖像を描くことを禁じるほど、彼の才能を高く買っていた。
――という記述が、大プリニウスが著わした『博物誌』にあるらしい。

「アレクサンドロス大王って、紀元前4世紀の人ですよね。その頃に、こんなに写実的に肖像画を描く技術があったなんて、信じられない」
現存する絵画では、アレクサンドロスの時代の数百年後、紀元前後に描かれたポンペイの壁画で やっと、人物の性格描写が始まっている。
それ以前は、ギリシャ・ローマはもちろん、エジプトでもメソポタミアでも、モデルの個性が窺い知れるような絵画は存在しない。
「それが描けたから、アペレスは天才なのよ。彼は、明暗法やハイライト、遠近法の技術を駆使していたというし、実際、この絵は美しいわ」
「ですが……」

沙織は、アテナ神殿の物置から出てきた板絵を、アペレスが描いたものと決めつけて絶賛するが、瞬は どうしても沙織の意見に賛同する気にはなれなかったのである。
2400年も昔の作品なのであれば、まさに天才の技と評するしかない高度な技術、優れた写実性ゆえに。
そもそも作品が1点も残っていないのでは、この絵が本当にアペレスの手になるものなのか、その真贋の鑑定は不可能である。
画家のサインなど、記そうと思えば アペレス以外の人間にも記すことができるのだ。
たとえば、画家の1000年後2000年後に生まれた人間にでも。
が、沙織は すっかり その気だった。

「もし、これが本当にアペレスの描いた作品だったなら、芸術の分野だけでなく、歴史の分野でも大発見ということになるわ。言ってみれば、ツタンカーメンの黄金のマスクが発見されたようなものよ」
「ツタンカーメンの黄金のマスク !? ってことは、高く売れるのか !? 」
星矢が 勢いよく 身を乗り出すことになったのは、アペレスの その芸術性や その作品の歴史的価値には興味はないが、それがツタンカーメンの黄金のマスクのようなものなら お宝には違いないと思ったからだったろう。
星矢は、小銭でも萌え絵でも構わないから、とにかく遺跡発掘調査の成果がほしかったのだ。
自分の努力が無為に終わったとは思いたくない。

「それは無理でしょう。売買は無理。もし 本物なら、この絵は どこかの美術館か博物館に収められることになるでしょうね。所有権はギリシャの国に帰することになるのじゃないかしら」
「土の中から発掘されたんならもそうかもしれないけど、アテナ神殿の物置から出てきたんだぜ。この絵は 当然、アテナのもんだろ」
「まあ、そう主張することもできなくはないと思うけど……」
「おっしゃあ!」
両の拳を がっちりと握りしめて、星矢がガッツポーズを作る。
そのポーズの力強さの割に、星矢の野望(?)は 極めて小市民的だった。

「所有権がアテナにあるとして、この絵、売ったらどれくらいの値がつくんだ? 肉まんが何個 買えるくらい?」
「肉まんで換算するの」
「肉まんでなくても、あんまんでも、ピザまんでも、カレーまんでもいいけどさ」
ピザまんやカレーまんを“中華まん”として一括りにしていいのかどうかという問題はさておいて、星矢は中華まんの世界から離れるつもりはないらしい。
少々 気の抜けた苦笑を作って、沙織は絵の値踏みを始めた。

「ツタンカーメンのマスクが300兆円の値がつくと言われているわね。あれは、紀元前14世紀のもの。しかも黄金製。アペレスは ずっと時代が下って、活動時期は紀元前4世紀。物も黄金製というわけではない。とはいえ、名前だけが有名な画家の、もしかしたら現存する唯一の作品だから――そうね。この絵に値段をつけるとしたら、10兆円くらいかしらね」
「1000年の差は大きいな。300兆円が10兆円、がくんと値が落ちて現実的な金額になる。1000年の違いは大きいというわけだ」
「現実的な金額って、どこがだよ! 10兆円だぞ、10兆円! 100円の中華まんが1000億個!」
氷河は、桁が大きすぎて、完全に金銭感覚が麻痺しているようだった。
そんな氷河に10兆円の重みを知らしめようとした星矢は、紫龍から、
「その例え、かえってわかりづらいぞ」
という指摘を食らうことになった。

とはいえ、星矢は、そんな指摘に耳を傾ける男ではない。
手をのばせば すぐ届くところに、肉まんの山があるのである。
脇目を振ってなどいられなかった。
「でも、本当に似ているわね。瞬そっくり」
というアテナの呟きも、星矢は無視する。
星矢は、芸術の分野や歴史の分野の発展に貢献したくて 発掘調査に 勤しんだのではないのだ。
実は、高価な お宝が欲しくて発掘調査に邁進したのでもない。
星矢が欲するのは、努力の成果。
この場合は、肉まん。
星矢は ただただ、肉まんを食べたかった。
ただ それだけだったのだ。
肉まん以外のすべてのことは、些末な付随事項でしかない。
星矢にとっては、そうだった。

「実物が ここにいるんだから、俺たちに瞬の絵は必要ない。売っちまおう! そうすりゃ、肉まんが山ほど買えて、そのお釣りで、ぼろぼろの聖域も 超高級大理石で再建できるぜ!」
「売るにしても、この絵の所有権が我々にあるのかどうかを確かめないと」
「あるに決まってるだろ! この絵は アテナのもの! 聖域のものだぜ!」
「そうは言っても、購入や譲受を証明する書類もないし――。まともなルートで売買しようとしたら、ギリシャ共和国は この絵は国のものだと言い出すでしょうね。絵が どこの家の物置から出てきたものであっても、アペレスはギリシャが生んだ画家だとか何とか、理屈を こじつけて。国有地や国有財産を切り売りして、何とか生き延びている今のギリシャは、この絵の所有権を主張したかったら、国から購入しろと言い出しかねないわ」
ならば、闇ルートで――とはいかない。
アテナとアテナの聖闘士は正義の味方。
常に清廉潔白でなければならないのだ。

「じゃあ、どうするんだよ! 俺の肉まんはどうなるんだ !? 」
この場合、発見者の一人が 問題の絵に描かれている人物にそっくりであるという事実は、絵の所有権を主張する根拠にはなり得ない。
板や絵具を鑑定して、2000年以上昔のものだと証明されれば、現代に生きる人間(しかも ギリシャから遠く離れた極東の島国生まれの人間)との関連は まず認められないだろう。

「正当な所有者の確認が最優先課題ね」
「所有者を確認って、どうやって……」
沙織に そう尋ねた時、瞬は既に 嫌な予感に囚われていたのである。
そして、案の定。

「そうねえ。とりあえず、クロノスの力を借りて アペレスの時代まで遡って、彼が誰の依頼で あの絵を描いたのか、調べてきてちょうだい」
「は?」
「私だって、博物館に寄贈するよりは、この絵を私のものにしたいわ。10兆円あれば、星矢の言う通り、肉まんの お釣りで聖域の立て直しができる」
「あの……」
「この絵が、いつ 聖域にやってきたのかが わからないのだから、それが いちばん手っ取り早い確認方法でしょう。終点から起点に向かって遡るより、起点から現代に向かって、所有者を探してきた方が早いわ」
「さ……沙織さん……!?」
「あなたたちだって、十二宮が いつまでも壊れた遺跡みたいなありさまで、再建されずにいるのは悲しいでしょう?」
「それは もちろん、十二宮の再建は急務だと思いますが……」

それは もちろん、地上の平和を守るための砦である十二宮を、現在の半壊状態でおくのは問題だろう。
十二宮は、可能な限り早急に再建されなければならない。
アテナのその意見には、異議も異論もない。
現実問題として、聖域の再建には財源が必要なこともわかる。
だが、なぜ そのためにアテナの聖闘士が2400年もの時を遡る必要があるのか。
そして なぜ、過去に飛ばされるのが白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士なのか。
そもそも どうして、いつのまに、クロノスがここに来て(?)いるのか。

アテナに問い質したいことは多々あったのだが、あいにく、そのための時間が 氷河と瞬には与えられなかったのである。
いつのまにか、そこにやってきていた刻の神クロノスが(十中八九、面白がって)お得意の過去飛ばしをしでかしてくれたから。
『わかっているとは思うが、期限は3日。歴史を変えることは厳禁だ』
既に聞き慣れたクロノスの時間旅行の注意事項が、時と次元の歪んだ空間に響く。
クロノスからの注意事項を追いかけるように、
「行ってらっしゃーい」
というアテナの声が、氷河と瞬の耳に飛び込み、消えていった。






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