紀元前4世紀のマケドニア宮廷。
氷河と瞬が飛ばされた場所は、“画家の工房”というイメージとは程遠い、凝ったデザインの家具調度に囲まれた豪奢な部屋だった。
王宮の建物自体は大理石あるいは花崗岩の石造りなのだろうが、石の冷たさを全く感じないのは、石が剥き出しになっているところが ほとんどないから。
壁には、高い天井からビロードに似た光沢のある布の幕が垂らされ、床には厚手の絨毯や動物の毛皮が敷かれている。
広い室内のあちこちに置かれている椅子は、一人掛けのものも長椅子も布張り。
今は 本当に紀元前4世紀で、ここは 本当にマケドニア王宮の中なのか。
そうなのだとしたら、マケドニア王室の財力は、19世紀20世紀の米国の成金並みだと、氷河は思ったのである。

そこは、マケドニアの王(ギリシャ、小アジア、エジプト、ペルシャの征服者でもある)の肖像画を描くためだけにある部屋のようだった。
一国の王が しばしば 足を踏み入れる場所なので、室内が飾り立てられ、贅沢な家具や調度も置かれている――ということらしい。
窓から離れた壁際に、板絵が十枚ほど立て掛けられている。
幅は様々だが、どれも 高さは2メートルほど。

描かれている人物は、鎧を身につけていたり、ギリシャ風のヒマティオンやクラミスをまとっていたり、ペルシャ風の丈の長いチュニックをまとっていたり。
背景に描かれているものは、兵士の隊列であったり、壮麗な宮殿であったり、贅を尽くした室内だったりと、趣は様々だったが、描かれているのは、ただ一人の男。
年齢は30歳前後。
黒褐色の髪。
瞳は、虹彩異色症らしく、黒色と青色。
頑健そうな体躯。
瞳、口許、両の肩には自信に満ちている、堂々たる美丈夫だった。
これが ただの“王”であるはずがない。
『もちろん “ただの王”であるはずがない』と、氷河と瞬は思ったのである。

絵の中の男の若さ、自信、強さ、野心、活力が、その絵の前に立つ者を圧倒する。
常人を超える静止視力、動体視力、深視力、中心視力、中心外視力を持つ聖闘士の目でなければ、氷河と瞬は そこにアレクサンドロス大王が幾人も立っていると誤認していただろう。
それほど写実的な肖像画。
しかも、絵には 写真や動画とは異なる熱と深みがある。

アレクサンドロス大王は、男性美を写実的に描くことのできるアペレスの才能を買い、彼の描く作品を、広い帝国支配の道具として 政策に有効利用したというが、確かに この画家の作品は、広大な帝国支配には必要不可欠なものだったろう。
アペレスは、大王の父の代にマケドニアの宮廷画家になり、即位前の大王も描いていたに違いない。
20歳で王位に就いたアレクサンドロス大王は、絵を見る限りでは、現在30歳前後。
アペレスは、10年以上の時間をかけて、夥しい数の大王の肖像画を描いたはずである。
その作品が1作も残っていないというのは、2000年以上の時の流れがあったにしても、惜しいことだった。
画家の絵なくして大帝国の支配は不可能だったに違いないというのに、それは 奇異なことでもある。

絵に描かれている大王の迫力に圧倒されて、氷河と瞬は あることに気付かずにいた。
実は、そこには、この絵を描いた画家がいたのだ。
画家は、彼の工房ではなく 王宮内の一室で、彼の職務を果たすよう、(おそらくは この国の支配者に)指示されているに違いない。
絵筆にしては武骨、ハケにしては小振りな 筆を手にした60歳前後とおぼしき男が、大きな板絵の間から、顔を覗かせた。
絵に描かれている大王の10分の1の生気も力も感じられない、貧相な男が。

彼は、瞬と氷河の姿を認めると、驚いたように首をかしげた。
やがて、その視線が 瞬の上に留まり、そうして彼は、裏返った声でできた悲鳴とも歓声とも つかない音を 室内に響き渡らせた。
「あなたは……私の境遇を哀れんだ芸術の女神(ムーサ)が遣わしてくれた御方だろうか……!? 美しい! まさしく、清純と高潔の化身! あなたを描かせてくれ!」

画家が瞬に向かって そう叫んだ時、氷河は沙織の魂胆に気付いた――薄々 気付いてはいたのだが、確信した――のである。
すなわち。
アテナ神殿の物置で見付かった あの絵は、クロノスが 紀元前4世紀のマケドニア王宮に瞬を送り込んだからこそ描かれた絵だということ。
クロノスが その無謀に及んだのは、アテナの画策によること。
沙織の目的は、聖域の再建費用10兆円を 手っ取り早く手に入れること。
“人”の権利を侵害せず、“人”に危害を加えさえしなければ、基本的に何をしてもいいと考えている沙織が、“人”として認めている存在の中に、彼女の聖闘士は含まれていない――ということを。

高名で自尊心の高い画家の許に瞬を送り込む。
瞬を見た画家は、瞬の絵を(頼まれなくても、タダで)描きたくなる。
完成した絵が 聖域に保管されるように、彼女の聖闘士が手配する。
氷河と瞬は、アテナに じかに そうするよう命じられたわけではなかったが、要するにそういうことなのだろう。

自力では帰れないことは わかっていのだが、
「帰るぞっ!」
氷河が瞬の手を掴んで、速やかに その場から退去しようとしたのは、アテナの聖闘士を使って大金を手に入れることを画策したアテナに憤ったからではなく、彼女の目的に 賛同できなかったからでもない。
そうではなく。
アテナが、瞬の恋人(のつもりでいる男)の許可も得ず、独断で そんな計画を立て、実行に移してしまったことに、氷河は立腹したのだ。
もちろん、瞬を見るなり 目の色を変えた古代ギリシャ随一の画家の態度も、氷河は 大いに気に入らなかったが。

「これほど印象的な瞳の持ち主が、この地上に存在していたとは……! いや、もしや、あなたは、この地上世界の人ではなく、私のために 天上界から下りてきてくれたのだろうか。感謝します、神よ……!」
写実の技術が売りの肖像画家が 優れた作品を生むには、モデルに恵まれる必要がある。
見た目が並外れて美しく、内面から にじみ出る人間性も 尋常の人間のそれではない瞬を描きたいと切望する画家の気持ちは わからないでもない。
ほとんど一目で瞬の価値を見抜く画家の目は、確かに超一流なのだろうと思う。
が、それとこれとは別問題。

これでまた、事が沙織の思い通りに運んだら、沙織は 今より一層 やりたい放題になるだろう。
そして、彼女は、彼女の聖闘士たちの人権も、瞬の恋人(のつもりでいる男)としての氷河の権利も無視し続けるのだ。
氷河は、彼女の聖闘士として、命尽きるまで戦い抜くことには やぶさかではなかったが、瞬の恋人としての権利を侵害されることだけは 我慢ならなかった。
人権など無いも同然のアテナの聖闘士である氷河が、唯一 我儘を通したいと願うこと。
それが、“瞬にとって特別な存在であること”だったのだ。
『瞬にとって、誰よりも特別な自分でありたい』
その願いの前には、一輝はもちろん、アテナでさえ、氷河には 蹴散らしたいライバルだった。
たとえ、目の色を変えて瞬を凝視している画家が 歳降った老人でも、彼が瞬に執心しているのなら、それは氷河にとっては 邪魔で無用な障害物でしかなかった。

「貴様には、瞬以外に肖像を描いて機嫌を取らなければならない男がいるだろう! 瞬を描いても、画料は払えんぞ。今の俺たちは無一文だ。俺の瞬に構うな!」
氷河の怒声に、画家は怯む様子を見せた。
激昂している氷河には、たとえ世界帝国の支配者であっても怯むだろう。
まして、人生の夕暮れ時に及んでいる覇気のない老人では、小さくなって震えるしかない。
実際 画家は、氷河に怯えた目を向け、身体を縮こまらせてしまったのである。
にもかかわらず、彼は、彼の望みの実現を諦めることはしなかった。

画家から、か細い声の答えが返ってくる。
「私は 陛下を描きたくないんだ、もう これ以上……」

これほどの絵を描く画家に 全く 力強さを感じないのは、絵の中のアレクサンドロス大王に生気を吸い取られてしまったからなのではないかと思うほど、古代ギリシャ随一の画家は憔悴している。
アレクサンドロスの帝国、チンギス・ハンのモンゴル帝国、ローマ帝国。
人類の長い歴史上に ごく僅かしか存在しない世界帝国の王に重用され、彼なくして帝国支配は不可能とまで言われた画家。
当然、地位も名誉も富も 思いのまま、人も羨やむ暮らしを享受できているに違いないのに。
名前だけが残っている古代ギリシャ随一の画家は、
「こんなはずではなかった……」
と呟いて、氷河たちの前で床に崩れ落ちた。






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