クロノスに与えられた3日間の期限が過ぎたことに 氷河と瞬が気付いたのは、氷河に羨望の眼差しを向けていた画家の姿が揺らぎ、ぼやけ、消えたから――というより、画家の背後にあった幾枚ものアレクサンドロス大王の肖像画が見えなくなり、代わりに そこに彼等の女神の姿が現われたからだった。 氷河と瞬は、アテナ神殿の玉座の間に戻っていた。 正面の玉座にアテナ。 そこから数段 下がった場所の脇に 星矢と紫龍。 氷河と瞬は 紀元前4世紀のマケドニア宮廷で3日間を過ごしたあとだが、星矢たちの主観では10秒の時間も過ぎていない。 そこにいるのがアテナの聖闘士ではなく、いわゆる一般人だったなら、彼等は 氷河と瞬が しばし この場に存在していなかったことに気付きさえしなかっただろう。 「お帰りなさい。氷河、瞬。どうだった? この絵は聖域のものと判断してもよさそうかしら?」 絵のモデルが瞬だということは知っているくせに、自分が そうなるように仕向けた張本人だというのに、嫣然と微笑みながら そんなことを尋ねてくるアテナの人の悪さと厚顔に、氷河は ある種の感動を覚えていた。 人間が定めた法に背くどころか、自然の摂理に背いた方法で、彼女は聖域再建のための資金を調達しようとしている。 それで傷付いたり損害や迷惑を被ったりする人間がいないとはいえ――いなければ許されることなのだろうか、これは。 その辺りのことが、氷河には判断し切れなかったのだが、ともかく、アテナの面の皮は厚く、その心臓には毛が生えている。 これくらいでないと“アテナ”という仕事は務まらないのだ、おそらく。 いずれにしても、この絵のモデルは瞬で、画家は特定人物の注文を受けて、この絵を描いたのではない。 この絵が聖域にあるということは、画家が この絵をアテナに捧げたから。 この絵の所有権は、間違いなくアテナにあった。 瞬が、アテナに頷く。 「アテナの他にその絵の所有者はいないと言っていいと思います」 この絵はアテナと聖域に属するもの。 アテナの所有権を認めた上で、瞬は思いがけないことを言い出した。 「でも、沙織さん。この絵、売ったりせずに、このまま聖域に置いてはいけませんか?」 アテナの面の皮は厚く、彼女の心臓には毛が生えている。 では、真正面から、そのアテナの計画を中止させようとする瞬の面の皮と心臓は どんなことになっているのだろう。 決して強い口調ではなく、あくまで“提案”という形を採ってはいたが、瞬は、アテナの10兆円入手計画を阻止しようとしていた。 「もともと、時間の理に逆らって描かれた絵ですし、この絵の存在は あまり表沙汰にすべきではないと思うんです。この絵を描いた人も、おそらく この絵が聖域に留め置かれることを望んでいると思います」 「……」 思いがけない瞬の造反(造反だろう)に驚いたように、沙織が瞳を見開く。 瞬が、アテナへの造反に及んだ訳を口にしないので――その訳をアテナに知らせるのは、(氷河にとっては不本意なことだったが)白鳥座の聖闘士の仕事になった。 「その絵を描いた画家は、自分の描いた作品の価値と自分の名声を、広く長く 人々の記憶と人類の歴史に残すことより、自分の作品が 画家が愛した ただ一人の人の手と心に残ることを望んでいる」 過去形ではなく現在形での報告になるのは、氷河が画家の死に接していないからではなく、画家の思いは2400年後の今でも生きていると思うからだった。 人生の たそがれの時期――自分の生きた証について真剣に考えるほどの、つまりは晩年。自分は 自分の生きた世界に何も残すことはできない、自分の生は無価値だったと諦めかけていた時。 優しく温かい希望の光を見せてくれた美しい人に、人は恋をせずにいられるものだろうか。 この絵は、そういう絵なのだ。 瞬の手許にあるのでなければ、この絵の存在意義は失われる。 一人の人間が生きた証。 それは、美術史の教科書より、自分が愛した人の心に刻まれてこそ、輝くものなのだ。 「では、瞬。この絵は あなたにあげましょう。好きになさい」 アテナが瞬の願いを聞き入れたのは、瞬の願いが利害を超越した清らかなものだから――だったろう。 名をしか残せなかった古代ギリシャ随一の画家の思いを無下にすることもできなかったのだろう。 しかし、それ以上に、憎き恋敵の望みを叶えるために口添えをする氷河の心意気に感じ入るものがあったから――だったのかもしれない。 「ありがとうございます……!」 顔を ぱっと明るく輝かせ、瞬がアテナに礼を言う。 アテナの10兆円入手計画中止への不満は、アテナではなく 彼女の聖闘士の口から飛び出てきた。 「でもさ! でも、10兆円だぜ! 肉まん1000億個!」 実に わかりやすい星矢の不満は、 「星矢。毎日10個食べても、2700万年かかるわ。肉まんを食べているうちに、恐竜も絶滅してしまうわよ」 という、少々 わかりにくい例えで、アテナに却下された。 自分が口添えしておきながら――画家の思いを酌み、瞬の望みを叶えてくれたアテナに、氷河は 胸中に 苦々しいものを生んでいたのである。 瞬が望めば10兆円の絵すら 簡単に諦めてみせるから、瞬はアテナに心酔する。 彼女のために 命をかけて戦おうとする。 アテナは、つまり、永遠にカリスマ性を失わないアレクサンドロス大王のようなものなのだ。 世界を征服し、真の意味での世界帝国を築くことも、彼女になら可能だろう。 と、氷河は思った。 そんなことを考えている氷河の耳に、 「しかし、不気味なほど簡単に引き下がったな……」 という、紫龍の不吉な呟きが忍び込んでくる。 『確かに』と、氷河が心中で頷くのと ほぼ同じタイミングで、耳聡いアテナが、 「何か言った?」 と、紫龍を咎め、 「いえ。まさか」 紫龍は 即座に、自分の呟きを なかったことにした。 四者四様の都合と事情で静かになった青銅聖闘士たちに、アテナが にこやかな微笑を投げてくる。 アテナという女神が、どういう人間性(神性)の持ち主であるのかを知っている青銅聖闘士たちの許に、途轍もなく嫌な予感が飛来。 そして、案の定。 「もちろん、今の聖域に お金は必要よ。でも、少し冷静に考えてみたら、アペレスのように 他に作品が残っていない画家の作品の真贋鑑定は とても難しい――というより、ほぼ不可能。疑惑を残したままの絵の売買は、売る方にも買う方にも不満と不幸を招きかねないわ。10兆円で売った翌日の市場で、絵の価値が100円に下落することだって あり得るのだから。10兆円は、さすがに ちょっと欲をかき過ぎたと思うの。聖域再建の資金調達には、もう少し 時代が下ってからの絵の方が確実で安全よ」 「もう少し時代が下ってから……?」 これは、『アテナも少しは懲りてくれたのだ』と安堵していい事態なのだろうか。 むしろ、『彼女は全く 懲りていない』と嘆く方が適切なのではないだろうか。 アテナの聖闘士たちには わからなかった。 たとえ わかっても、わかったことを アテナの前で明言する度胸はなかったろうが。 「ええ、そう。せめて真贋を鑑定できる画家の絵でないと、値をつけること自体が難事業。真贋鑑定が不可能なアペレスの絵では、へたをすると妥当な値をつけるだけの作業に5年10年の時間が かかってしまうかもしれない。そんなに長く待っていたら、再建する前に 聖域が遺跡になってしまうでしょう。それで 私、考えたのだけれど」 『考えなくていい!』とは言えないアテナの聖闘士たちの立場の弱さ。 光速の拳を見切ることのできる能力など、アテナの微笑の前には、完全に無意味、無意義、無価値、無能にして無力だった。 「20世紀初頭、ルーブルのモナリザが盗まれた時、モナリザには16億3000万ドルの値がついたと言われているわ。当時の為替レートは、1ドル300円くらいだから、現在の価値で4890億円」 「だ……だから?」 声が引きつっているのか、喉が引きつっているのか。 あるいは引きつっているのは、彼の精神状態なのか。 いずれにせよ、氷河が発した『だ』『か』『ら』という3つの音は、これ以上ないほど 引きつっていた。 そんな氷河とは対照的に、沙織の方は、声も言葉も これ以上ないほど 滑らかである。 「だから、瞬には、今度はレオナルドの時代に飛んでもらいましょう」 そうなるのだろうとは思っていたのだが、なぜ そうなるのかが全くわからない。 いっそ、オリンピック・パラリンピックを控えて盛り上がっている某国某首都の競技施設工事の現場で 肉体労働をして日銭を稼いでこいと命じられた方がずっとまし。 氷河は、心の底から、そう思った。 時給が1億くらいなら、アテナも それでよしとしてくれるかもしれないのに――と。 「画家なら誰だって、瞬を見たら、絵に描きたくなるでしょう。レオナルドは美少年好きだし、実母と養母絡みの複雑なマザコン男でもある。マザコンの篭絡なら、瞬は お手の物。いいえ、篭絡しようなんて考えなくても、瞬には レオナルドの方から寄ってくるわよ」 沙織は、確信に満ちて断言する。 その根拠はどこにあるのかと問い質すほどの強心臓を、残念ながら、氷河は持ってはいなかった。 「レオナルドが描いた性別不肖の美少女の絵。モナリザなんて おばさんじゃなく、正真正銘の美少女の絵。しかも、100万人の美術評論家が500年の時間をかけても解けない謎もついている。世界一の名画も世代交代よ。お値段は……そうね。7000億から8000億といったところかしら」 “性別不肖の美少女”とは何なのか。 なぜ“性別不肖の美少女の絵”が“正真正銘の美少女の絵”とイコールで結ばれるのか。 沙織の感性にも 論理にも、氷河は ついていけなかった。 白鳥座の聖闘士よりも常識をわきまえていることになっている瞬と紫龍は なおさら、大きな置いてけぼり感を味わっていただろう。 ただ一人、星矢だけが、 「8000億円ってことは、肉まん、80億個分かあ。全然ОKだぜ。ついでに聖域の再建もできて、地上の平和のためにもなる。瞬、頼むぜ!」 と、アテナに同調し、気炎を吐いている。 ここでアテナの計画に喜び勇んで乗ってしまえるから、星矢は この世界の主人公なのだろう。 所詮 常識人は世界の主役になることはできず、神から“英雄”のご指名を受けることはできないのだ。 神ならぬ身のアテナの聖闘士は、敵がアテナであるがゆえに、彼女に『そういう方法は間違っている』と主張することはできない。 肉まんと地上の平和のためになら、神と英雄は何をしても許されるのだろうか。 地上の平和は、常識を備えた人間には辿り着けない因果の果てに存在するものなのか。 だとしたら、平和への道のりは険しい。 Fin.
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