「砂男の話を知ってる?」 僕が氷河と“砂男”の話をしたのは、ポセイドンとの戦いが終わった直後。 ハーデスの力によって蘇ってきた先の教皇シオンたちが聖域に侵入してくる前。 ついに手に入れた平和の時が嬉しくて、でも、この平和の時が いつまでも続くのかという不安もあって――ううん、次の戦いが まもなく始まるっていう予感を覚えていたんだ、僕たちは、あの時 既に。 これまでの戦いも そうだったけど、次の戦いも命をかけた戦いになる。 もちろん、そうなる。 戦いの中で命を落とす可能性だって 皆無じゃないんだから、むしろ、その可能性は とても大きいんだから、そうなっても後悔しないよう、生きているうちにしたいことは 生きているうちにしておこう。 僕は そんなことを考えていた。 みんなも そうだったんじゃないかな。 もっとも、アテナの聖闘士の戦いは――アテナの聖闘士の人生は、いつだって死と隣り合わせなんだけどね。 アテナの聖闘士に限らず、人は 誰だって、いつだって、死と隣り合わせに 自分の生を生きている。 僕に 突然 砂男の話を持ち掛けられた氷河は、『なぜ 急に そんな話を始めたんだ?』って言いたげな目をして、でも、そう言うことはせずに、 「砂男? ホフマンの? 確か、コッペリアの元ネタだったな」 って、いかにも半分ロシア人らしい答えを返してきた。 あ、そうじゃない。 バレエのコッペリアは、作曲者はフランス人で、初演もパリ。 それは、ロシア人らしい答えじゃなく、カミュの弟子らしい答えだったのかもしれない。 いずれにしても、そう。 僕が口にした“砂男”は、コッペリアの原案になったE.T.A.ホフマンの小説『砂男』だった。 「大人しく眠らない子供を寝かしつけるための、西洋版ナマハゲといったところか。いつまでもベッドに入らない子供の目に砂を投げ込んで、目玉を奪っていく男――だったか」 「うん。ホフマンの小説の主人公の青年は、子供の頃に聞かされた砂男の話をいつまで経っても忘れられなくて、大人になってからもずっと その影に怯え続けて、最後には正気を失って破滅してしまうんだ」 「それが? まさか、おまえが砂男に つきまとわれているわけじゃあるまい?」 「ん……」 そう尋ねてきた氷河が笑っていたのは、僕が砂男に つきまとわれたりしているわけがないと決めつけていたから――だったと思う。 そもそも、砂男は日本にはいない。 日本のナマハゲは、泣いている子供のところに来るもので、眠らない子供を脅して眠りに就かせる時の日本の常套句は、『眠らないと、おばけが来るよ』だ。 生まれて すぐに両親を亡くした僕は、眠らない子供に悩まされた両親に そんな決まり文句を言ってもらうこともできなかったから、それが元でトラウマを抱え込むこともない。 それに、痩せても枯れても僕はアテナの聖闘士。本物の砂男に砂を投げつけられても、僕は簡単によけられる。 氷河でなくても――誰だって、冗談だと思うに決まってる。 実際、僕は、冗談のつもりで“砂男”なんてものを持ち出したんだ。半分は。 半分は、本気だった。 「あの人も、そういうものなんだろうか……」 「あの人とは誰だ」 「ん……」 半分は冗談なんだから お茶を濁してしまうこともできたんだけど、何となく 話しておいた方が いいような気がして――今 話さないと、生きているうちに その話をする機会を二度と持てないような気がして――だから、僕は、氷河に あの人の話を始めたんだ。 アンドロメダ島で出会った不思議な人。 僕が最初に あの人を見たのは、子供だった僕がアンドロメダ島に送られて1ヶ月も経っていない ある日の夕暮れだった。 修行のつらさや気候の厳しさのせいじゃなく、自分が一人きりだってことに 早くも挫けそうになって、このままずっと この浜辺にいれば、すぐに凍え死んで、僕は 耐え難い孤独から解放されるんだ――なんて情けないことを、ぼんやりと考えていた時。 その人は、いつのまにか そこにいた。 その人は、アンドロメダ島の浜辺に、僕との間に10メートルくらいの距離を置いて立っていて、何も言わずに僕を見詰めてた。 そして、僕が、『誰だろう?』って首をかしげた時にはもう、その姿は消えていた。 「消えていた?」 「うん。消えていた」 僕が 次に あの人に会ったのは、アンドロメダ座の聖衣をまとう資格を得るための最終試験サクリファイスに挑んでいた時。 アンドロメダ聖衣の鎖で犠牲の岩に繋がれ、その鎖を外せなければ、アンドロメダ座の聖衣をまとう資格を得るどころか 溺れ死ぬしかない、アンドロメダ島最大の試練――サクリファイス。 あの人は、やっぱり 無言で、僕を見詰めてた。 海の中で。 「鎖を外すことができずに 死にかけていた時だったから、幻を見ただけだったのかもしれないと思ってたんだけど――僕、砂男の小説の主人公の青年みたいに、その後も 幾度か その人の姿を見たような気がしているんだ。それも、決まって、死にかけている時。死神には見えないんだけどね。現に、僕は今でも こうして生きてるし」 「どんな男だ」 妙に機嫌が悪そうに、氷河が尋ねてくる。 その質問に、僕は戸惑った。 僕が氷河の質問に戸惑った理由の一つは、もちろん、氷河が急に不機嫌になったから。 もう一つは、氷河があの人のことを男性だと決めつけていたから。 僕が“死神”なんて言葉を口にしたからなのかな。 西洋では、死神っていうと、大鎌を持った骸骨か、ギリシャ神話のタナトスかハーデスのイメージを思い起こす人が多いみたいだね。 日本のイザナミみたいに、死神が女性なのは、どちらかというと この地球では 少数派なのかもしれない。 そして、僕が氷河の質問に戸惑った最大の理由は――むしろ、それは、“僕が その質問に困ってしまった理由”と言うべきなのかもしれないけど――つまり、僕は、あの人が男性なのか女性なのかを知らなかったんだ。 あの人は、一目で性別がわかる姿をしていなかったし(あの人は いつも、ゆったりした長衣で全身を覆っていた)、僕はあの人と言葉を交わしたこともなく、その声を聞いたこともなかったから。 言葉を交わす機会があっても、まさか性別を訊くなんて失礼なことはできなかったと思うけど。 でも、女性ではない……かな。 「とても美しい人だよ。20歳は過ぎているのかな……。十代の少年か少女にも見えるし、百歳の老人にも見える、不思議な人。悲しそうな色の目をしてて、髪も そんな色。いつも つらそうに、切なそうに、僕を見詰めてるんだ」 「ふん」 氷河は、相変わらず 不機嫌な顔つき。 僕の“あの人”の説明を鼻で笑ってから、氷河が披露してくれた彼の見解に、僕はびっくりした。 氷河は、 「ストーカーじゃないのか」 って言ったんだ。 「気を付けた方がいい。おまえは綺麗だから」 って。 僕は、あの人のことを、死神ではないにしても、妖精とか、特別な人間の魂が姿を持ったもの、あるいは亡霊、もしかしたら花や光の神ですらあるのかもしれないって思っていたのに、よりにもよってストーカーだなんて。 氷河は、あの人の特別な佇まいを見たことがないから、あの人の 美しく澄んで 凛としていて 超俗的な姿を見たことがないから、ストーカーなんて、そんな俗っぽい発想が出てくるんだよ。 「ストーカーではないと思うよ。そんな人じゃない」 僕は、アンドロメダ島を出てからも、あの人の姿を幾度か見ているんだ。 死にかけた時、死に瀕した時――天秤宮で氷河を蘇らせようとしていた時、アフロディーテの毒薔薇の中で意識を失う直前。 一瞬、姿を見せて、まるで 助力の要不要を確かめるように 僕を見詰めて、『君の力だけで大丈夫そうだね』って言ってるみたいな表情になって消えていく――僕の力になれないことが悲しいみたいな目をして、消えていく。 綺麗で、切なそうな目をした人なんだよ。 「あの人、多分、普通の人間じゃないと思う。ストーカーなんて……」 「ストーカーになるのは人間だけとは限るまい。神や悪魔が人間に目をつけることもあるかもしれない」 「神がストーカー? まさか」 「心配なんだ。おまえは綺麗で――おまけに、ストーカーにストーキングされても、それがストーキングだと気付かないような、うっかり者だ」 「僕、さすがに そこまで ノンキな人間じゃないと思うけど」 「そう思っているのは、おまえだけだ。おまえは人を信じすぎる。ま、おまえは そこがいいんだがな。普通、うぬぼれて 何かと疑り深くなるものだぞ。おまえくらい綺麗だったら」 「……」 氷河が本当に真面目な心配顔で僕を見詰めてて、その瞳がとても深くて綺麗な青色で――僕は一瞬 息を呑んで、そして 心臓が止まった。 それから、僕の心臓は どきどきしてきて――。 もし あの時 星矢がラウンジに飛び込んでこなかったら、僕と氷河は 違う話を始めてしまっていたかもしれない。 でも、星矢が元気よくラウンジに飛び込んできたから(すぐに紫龍も来た)、僕たちは“違う話”を始めそびれてしまったんだ。 あれは――僕が死に瀕するたび、僕に姿を見せる あの人は、ハーデスじゃなかった。 似ているところがあるのは否定しない。 美しいし、若い姿の裏に 重ねた歳月の長さを感じさせるところも似ていると思う。 明るさのない悲しい色の瞳、悲しい色の髪。 氷河は、それをハーデスだったと思っているようだけど――。 でも、それは 氷河が あの人の姿を見たことがないから。 だから、氷河は、あの人をハーデスだと決めつけることができるんだ。 僕は逆に――エリシオンで ハーデスの真実の姿を見た時、あの人とハーデスは違う人だとわかった。 確かに、どこか似たところはあるんだけど。 |