“自分は疫病神である”という、長年の誤った思い込みが解消され、一人の老紳士が長年 抱いていたのだろう罪悪感が消え、ザイルクライミングの登頂に成功したナターシャは 超機嫌。 これは おめでたいことなのだろう。 縁起のいいことなのだろう。 今年は いい年になるのかもしれない。 瞬とて、そう思わなかったわけではない―瞬は、そう思おうとしたのである。 だが。 「アンドロメダ島ってね、僕が行くまで、月に一度は 途轍もなく大きな嵐に襲われていたんだって。木が育つ前に暴風雨に根こそぎにされてしまうから、あの島には背の高い木が1本もなかったんだよ。でも、僕がアンドロメダ島に渡った頃から、気候が変わったのか、その嵐が 全く 来なくなった……」 そして、瞬がアンドロメダ座の聖衣を授かり 島を去った途端、アンドロメダ島は 教皇の命を受けた黄金聖闘士たちによって消滅してしまったのだ。 「十二宮戦、アスガルド戦、ポセイドン戦――もちろん、アテナの加護はあったわけだが、その間ずっと 沙織さんが絶体絶命状態にあって、俺たちに 振り分けるだけの余力がなかったのも事実だ。沙織さんが戦闘モードで敵に対峙したのは、後にも先にもハーデスに対した時のみ」 「……」 どうして 氷河は、そんなふうに 気付かずにいた方がいい時にだけ、気付かずにいた方がいいことに気付いてしまうのか。 瞬は、少し恨めしい気持ちになってしまったのである。 どちらにしても、それは、言わずに済ませることはできない推察だったのだが。 「僕に憑いてた福の神って、どう考えてもハーデスだよね……」 「ハーデスは、多くの命を生み、多種多様な資源を抱いている地下を司る神。富と豊穣の神だからな」 氷河は 瞬の推測に賛同の意を示した。心底から嫌そうな顔で。 「だが、ハーデスが おまえにとっての福の神だったとは思えんな。奴は、おまえに厄介事ばかり運んできた。今のおまえがあるのは、おまえ自身の努力と才能の結果だし、おまえの成功や幸運は 冥界での戦いが終わってから 形を成し始めたものと言っていい」 氷河が ハーデスの力や影響を否定するのは、彼が冥府の王を嫌いだからではなく(もちろん嫌いだろうが、それ以上に)、瞬の一人の人間としての力を肯定したいからだったろう。 死者の世界を支配する、富と豊穣の神ハーデス。 勝利の神を付き従えた、知恵と戦いの女神アテナ。 瞬が かつて その身にまとっていた聖衣の名“アンドロメダ”も、“人間を見守り支配する者”を意味している。 人間の力とは異なる幾つもの力に、瞬は、囲まれすぎ、守られすぎている。 瞬が、一個の人間としての自分自身の力を 微々たるものと思ってしまう事態を避けたくて、彼は ハーデスの無力を 言い募るのである。 もちろん、腹の底から ハーデスが嫌いだから。 氷河の気持ちはわかるので――その気持ちは、瞬は嬉しかったのである。 そして、もちろん、氷河の言う通りだと思う。 だが、瞬は、一人の人間の努力と才能だけでは、どうしようもないことや 成し遂げられないことが、人間の人生には数多くあることも知っていた。 人間の持つ力には限界があるのだ。 その人間が一人きりであるならば、必ず。 「ありがとう、氷河。でも、大丈夫だよ。僕は、僕の幸運は、僕と兄さんが 氷河や星矢や紫龍たちに出会えた時に始まったと思ってるんだ。神様じゃなく、氷河たち。だから、僕は、どんな つらいことにも耐えられたし、今の僕がある。今の僕は、当然 幸せだ」 「それは、俺も同じだが……。おまえに会えなかったら、俺は、自分がマーマなしでも幸せになれるかもしれないという可能性を 考えることすらしなかったろうからな。おまえが、俺を、今も生かし続けているんだ」 「本当? なら、嬉しい」 嬉しそうな微笑を浮かべた瞬に そう言われ、嬉しそうに見詰められ、見詰められることで、氷河は、あっさり ハーデスへの憤りを忘れてしまったらしい。 「俺とナターシャは、おまえから幸せしかもらっていないぞ」 と 耳許で低く囁き、氷河が瞬の腰に手をまわしてくる。 氷河の その声と指先は、冬の戸外らしくない熱を帯びていた。 人目のある公園で それ以上の何ができるわけもないのだが、氷河は しばしば、そんな常識的判断を 鮮やかに無視してのけることがある。 用心のために身構えた瞬の緊張を、 「パパとマーマは仲良しさんダヨ。ナターシャも、パパとマーマと仲良しスルー!」 というナターシャの弾んだ声が、杞憂にしてくれた。 さすがに ここでナターシャに『邪魔をするな』と文句を言う無分別はなかったらしく、氷河は すぐに“(その気になりかけている)瞬の恋人”モードから“(カッコいい)ナターシャのパパ”モードへと、彼自身の舵を切った。 「手が冷たいぞ。手袋もせずに、ザイルクライミングを登っていたのか」 抱き上げたナターシャの手が冷たかったのだろう。 氷河が、ナターシャに尋ねることで、瞬に その事実を報告してくる。 瞬は、氷河の右腕に座っているナターシャの手を温めるために、彼女の小さな手を自分の手で包み込んだ。 “仲良しのパパとマーマとナターシャ”の図に、ナターシャの顔が ほころぶ。 「ザイルクライミングのてっぺんまで 登れば、一輝ニーサンを見付けられるかもしれないって思ったんダヨ。デモ、一輝ニーサンは見えなかったヨ。一輝ニーサン、明日は 来てくれるカナ」 ナターシャは、大金持ちになることを まだ完全に諦めてはいなかったらしい。 一輝が松の内に来てくれなかった時の対応策を講じておくべきかと、氷河と瞬が顔を見合わせた時、 「デモ、一輝ニーサンが アケマシテオメデトウに来ないのは いいことなんだッテ」 ナターシャが、思いがけないことを言い出した。 「え?」 「一輝ニーサンは、マーマがピンチになった時には、世界の果てからでも飛んでくるんだぞッテ、紫龍おじちゃんが言ってタ。一輝ニーサンが来ないのは、マーマがピンチじゃなくて、幸せだからなんだッテ。一輝ニーサンが セコイオトコだからじゃないんだッテ」 「いや、一輝は せこくて――」 「紫龍の言う通りだよ、ナターシャちゃん!」 氷河が何か言おうとしたのを、瞬は 大きな声で遮った。 せっかく紫龍が丸く収めてくれたのに、氷河は なぜ その丸を壊そうとするのか。 無益な愚行に及ぼうとする氷河を、瞬は睨みつけた。 氷河が怯み、僅かに口許を引きつらせる。 「ダカラ、ナターシャは オオガネモチに ならなくてもいいカナって思ったノ。ナターシャ、マーマがピンチじゃなくて幸せでいる方がいいカラ」 そんな氷河に比べて、ナターシャの なんと清らかで優しいこと。 まるで暗闇を照らす光、まさに 希望の光の具現である。 「パパも その方がいいヨネ!」 「あ? ああ、それは もちろん、瞬がピンチじゃない方がいいに決まっているが」 「ウン、そーだヨネ! マーマがピンチじゃない方がいいに決まってるヨネ!」 今 ピンチに陥っているのは、瞬ではなく 氷河の方だったのだが、『パパは世界一 強くてカッコいい』と信じているナターシャは、パパがピンチに陥る可能性など考えもしないのだった。 はたして、ナターシャは大金持ちになれるのか。 氷河のピンチに 一輝は駆けつけてくれるのか。 今年の松の内最後の日。 運命の日は、いよいよ明日に迫っていた。 Fin.
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